2006年2月5日  顕現後第5主日 (B年)


司祭 テモテ 宮嶋 眞

 マルコ福音書によるイエス様の宣教の物語の中には、人々の病気を癒す記事がたくさん出てきます。病気がたちどころに治ったなどという記事がたくさんあり、魔術師のように感じることもあります。しかし、イエス様が病を癒すというときに使われている言葉は「テラピューオー」というギリシャ語で、今日「テラピー、セラピー(治療)」という言葉の語源になった言葉です。もうここ何年も、「テラピー」ばやりで、「アロマセラピー」「フットセラピー」「アニマルセラピー」「カラーセラピー」「バランスセラピー」「タラソセラピー」「バイタルセラピー」「環境セラピー」「アクアセラピー」「CO2セラピー」などなど、、、キリがありません。これらは、いずれも実際にあるものですが、何かものめずらしいものとセラピーをくっつければ、それらしく聞こえてくるから不思議です。それほど、現代人が癒しを求めていることだけは確実なようです。
 この「テラピューオー」の名詞形は「テラボーン」で、「奴隷」を意味します。ですから、この言葉は、本来は奴隷のように仕えるという意味も込められているようです。イエス様の癒しは、何かおまじないを唱えて、一瞬のうちにぱっと直すというようなものではなく、病の苦しみを持つ人に、奴隷のように仕えられたのだと思います。このたとえは適切でないかもしれませんが、医者のようにスパッと治すのではなく、どちらかというと看護師のようにつきっきりで世話をし、看病して直すというような形をとられたのではないかと思います。そういえばこの「看」という字も、「手」と「目」が使われています。「手当て」をしつつ、苦しむ人、痛む人に寄り添い、共にその痛みや汚れを担おうとされたのがイエス様の癒しの姿であったのでしょう。だからこそ、今日の聖書の箇所で癒されたシモンの姑も、直ったら、今度は自分が「仕えるもの」となって、他の人をもてなしたのでした。
 「もてなし」という意味の英語である「ホスピタリティー」も、ホスト(客をもてなす人)として、ホスピタル(病院)、ホスピス(死に行く人のための家)、ホステル、ホテルなどを訪れる人を、受け止め、いやすことが目的だったのでしょう。日本語の「働く」だって、はたを楽にさせるから、働くなんだそうです。そういえば、わが教区のモットーは「はたらくだ!」