司祭 ヨハネ 黒田 裕
水の中からすぐに
今日は顕現後第1主日、そして「主イエス洗礼の日」です。その名の通り、本日の福音書はイエスさまの洗礼の場面が選ばれています。毎年この主日の福音書には、同じ場面が選ばれているのですが、今年は、この箇所に目を通していて、ふとあることに気づきました。というのは、(イエスは)「水の中からあがるとすぐ」(マコ1・10)の、「すぐ(に)」(※以下「すぐに」)に目が止まったのです。なぜ、わざわざ「すぐに」が付けられているのでしょうか。そこでマタイ福音書にも目を通してみました。やはり「すぐに」がついています。マタイがマルコを踏襲したことが分かります。ではルカ福音書ではどうでしょうか。興味深いことに、ルカでは「すぐに」が使われていません。そもそもルカでは「水から上る」という描写が省かれていて「洗礼を受ける」という動詞一つで洗礼の動きがあらわされています。
概していえば、ルカの福音書が書かれた時代には「世の終りが来る」という切迫感が薄れていたと言われています。言い換えれば、長い教会の時代が想定されていて、その時代をどう生きるかに重点が置かれていたということができます。それに比べマルコは、もうすぐにでも終末がやってくる、という差し迫った時間感覚の中に生きていたようです。そこから推し量るならば、マルコにある「すぐに」という語は、差し迫った終わりと関係する特別な意味を持ってくることになります。やはり「すぐに」には、それ自体に格別なメッセージが込められているに違いありません。
さて、この「すぐに」から連想するのは、弟子たちが召し出されたときのことです。四人の漁師たちが、最初に弟子となったのですが、イエスさまの呼びかけに対して最初の二人は「すぐに網を捨てて従」(4・20)い、次の二人も「すぐに、船と父親とを残してイエスに従った」(4・22)のでした。イエスさまに呼びかけられた、それに躊躇するいとまなどなくて、ただちに従っている―。じつは、そこに福音の秘密があるのです。
これに近そうな日本の言葉には「善は急げ」があります。言うまでもなく「よいことをするのにためらうな」という意味ですが、これは善い行為を選択するにあたっての知恵もしくは倫理です。しかし、福音はこれとは逆なのです。これから善い行為を選択しよう、というのではなくして、先に善いものに出会ってしまう。善いものに直面してしまうから直ちに従わざるを得ない、そのようなものなのです。
ところで「水から上る」という動きそのものは「救い」を象徴しています。ですから、イエスさまが水に浸かり洗礼を受けて「すぐに」水から上った、とは、この動きそのものが福音の秘密をあらわしていることになるのです。水に浸かることが死をあらわしているのだとすれば、水から上るとは復活をあらわしています。水に浸かったままでは事柄の半分で終わってしまうことになるのです。
私たちは辛い目に遭ったとき、早くそこから脱したいと願います。しかし、また同時に、どこかそこにひたっていたい、可哀想な自分に浸かっていたい、という相反する気持ちもあるのではないでしょうか。いわば「死」に留まっていたい。
しかし福音に生かされる、とは、涙の海から「ただちに」「すぐに」引き上げられることを表しているのです。イエスさまは、私たちに先立って、身をもって私たちに福音の秘密を示して下さいました。それは、「すぐに水の中から上っておいで」という招きでありました。