2005年11月20日  降臨節前主日 (A年)


司祭 ヨハネ 石塚秀司

「心に愛の命の復活を」【マタイによる福音書25章31節〜40節】

 東京・町田市で、高校1年の女子生徒が、同じ学校に通う男子生徒によって刺殺されるという事件が起こりました。顔や頭、背中に50箇所もの刺し傷があったそうです。そのような行為に及んだ理由は、自分に対して冷たくなったような気がして腹が立ったからだそうです。その一日後のニュースだったでしょうか。今度は、大阪の生野区の病院で、退院した男がナイフで病院関係者数人を刺したと報道されていました。理由は、要求した薬をくれなかったから腹が立ったというものでした。このような事件が毎日のようにニュースで報道されています。
 この原稿を7行打ったところで、幼稚園の事務所から電話があり、園児をお迎えに来た保護者の車が、園の駐車場で車上荒らしの被害に遭ったという連絡が入りました。預かり保育のお迎えに来ての出来事です。前の助手席側のガラスが粉々に割られ、財布の入ったバッグが盗まれていました。銀行から引き出してきたばかりの現金とキャッシュカードが入っていたそうです。ほんの10分ほどの間の出来事です。
 日本の社会も本当に暗い出来事ばかりが起こるようになってきたように思えてならないのですが、いかがでしょうか。最近つくづく思うことがあります。自分も含めて、人々は体の健康のためには、具体的にいろいろと心配をし、気を使い、お金を使います。体の病気を治療するための医療技術は日進月歩です。その恩恵で日本は世界で一番の長寿国になりました。これは確かに素晴らしいことだと思います。しかしその一方で、なぜ、体の健康と同じように心の健康を真剣に考えないのでしょうか。どんなに寿命が延びても、体の健康が進歩しても、心が貧しく、暗く、元気でなければ本当に幸せだと言えるでしょうか。心の病は体にも影響します。人の命や物を奪う事件さえ引き起こします。
 社会の闇は、取も直さず、私たち一人ひとりの心の闇から始まっています。そして、自分のことしか考えない自己中心の罪が心の闇を生み出していきます。その罪に気づかせ、闇に覆われた人々の心に愛の灯火をともし、心が再び健康を取り戻すために、イエス・キリストは私たちのもとに来てくださいました。それがクリスマスです。そして、十字架の死とご復活のみ業を通して、一人ひとりの心と生き方、社会が新たに復活する道を示してくださったのです。イエス・キリストに出会い、神様の愛の命に生かされ復活の恵みに与った人たちは、すべての人がその恵みに与り、世界が平和になることを望み、神様のみ業の成就を信じて、イエス・キリストの福音を人々に伝えていきました。これがキリスト教会の伝道であり宣教です。
 聖パウロは、新約聖書コリントの信徒への手紙一の13章でこのような言葉を書き残しています。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。・・・・それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1節−3節、13節)。
 あなたの心は闇で覆われていませんか? 毎日の生活に、あるいは自分の人生に空しさを感じていませんか? もし感じているとしたら、見つめてみてください。きょう一日のあなたの生活を。最も身近な家族、妻や夫、子どもや親、兄弟に、愛をもって接していただろうか。思いを大切にしていただろうか。会社の同僚や部下、上司、お客さんに、相手のことを考えその人を生かそうと関わっていただろうか。悩んでいる人の思いを受け止めていただろうか。助けを求めている人の前を素通りしていなかっただろうか。イエス・キリストのみ言葉は、こうしたごく身近なところでの心と心の命の関係に光を当ててくださいます。