2005年11月6日  聖霊降臨後第25主日 (A年)


司祭 ヨハネ 井田 泉

澄んだ歌を神に

        「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。
        正義を洪水のように
        恵みの業を大河のように
        尽きることなく流れさせよ。」               アモス5:23−24

 神は私たちの声を聞こうとしておられます。私たちのささげる礼拝の中におられて、一緒に喜ぼうとしておられます。私たちの歌を神は待っておられます。
 ところが、神が礼拝を喜ばれない、ということが起こりました。その歌を神が拒まれる、ということが起こりました。紀元前8世紀、北王国イスラエルの首都サマリア、あるいは王室聖所のあるベテルでのことです。
 神はその歌を「騒がしい」と言われました。なぜか。
 その歌は人間の自己満足、自己正当化の歌だからです。その歌は祈りではない。神に呼びかけようとするものではない。その騒がしい歌、騒音でしかない礼拝においては、神の声は聞こえない。神の声を聞こえなくさせる歌を、神は喜ばれるはずはありませんでした。
 紀元前8世紀、北王国イスラエルはヤロブアム2世の統治の下、繁栄を誇っていました。政治、経済、軍事にわたって国力は増大しました。盛大な礼拝がささげられていました。
 しかしその繁栄の陰に、弱い者は踏みつけられ、貧しい者はかろうじて持っているわずかなものまで貢納として取り立てられました。裁判は富と力を持った人たちのために行われ、虐げられた人々は放り出されました。悪徳商人は不正な分銅と天秤を使って肥え太り、貧しい者は「靴一足の値で」(アモス8:6)買い取られて行きました。
 この圧政、この不公平、この不義を見過ごすのが礼拝なのか。この間違った現実をおかしいと感じさせないようにするのが礼拝なのか。貧しい人の嘆きは、盛大な礼拝の立派な歌の中でかき消されている。
 「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。」
 あなたがたのささげる礼拝をとおして、私の声を聴き、世の中の間違いを正し、見捨てられた人たちを見出し、いのちを回復させよ。そうしてこそあなたがた自身も生きるようになる──そのように神は言われたのです。
 礼拝は神の声を聴く場所、弱った人の思いを聴いて神に届ける時です。騒がしくてはそれは不可能です。心が静かになってこそ、それを聴きまた届けることができます。
 私たちのささげる礼拝がほんとうの祈りとなり、歌が澄んだ歌となりますように。そうして神の愛のいのちが私たちの魂に浸透し、私たちをとおして神のわざが行われますように。
 聖霊がそのことをしてくださるように、主イエスの御名によって祈ります。アーメン