司祭 ヨシュア 文屋善明
民を迷わす預言者【ミカ書3:5−12】
1.民を迷わす預言者
一つの民族が民族として、現代でいえば一つの国家が国家として健全に存立し、他民族あるいは他国と平和な関係を維持するためには、何よりも指導者の有り様が重要である。これは現代だけではなく、古代社会においても同様であり、何時の時代においても指導者の資質が問われてきた。
ミカ書の重要なテーマは、イスラエルの指導者の有り様である。本来のミカ書においては、政治的指導者(王)と宗教的指導者(預言者)とが批判の対象とされている。イスラエルの民族的堕落の原因は、彼らの堕落による、というのがミカの主要なメッセージである。
本日のテキストでは「わが民を迷わす預言者たち」として、宗教的指導者に対する批判が語られている。今日の日本を考えると、政治的指導者の問題は明白であるが、宗教的指導者についての議論はほとんどなされない。なぜなら、真の意味での宗教的指導者と呼ばれるにふさわしい人物がいないということであろう。キリスト教界をみても、仏教界をみても、その他の諸宗教をみても、残念ながらいない。
本当の意味での宗教的指導者とは、民衆全体に対して明確な価値観を指導している人物を意味している。その人が、右が正しい、といえば、国民はそう信じ、それは「間違っている」といえば、民衆はそうだと信じるような、指導者を意味する。つまり、その民族の精神的支柱であり、民族の価値観を設定できる人物である。それだけに、その人の「判断」は決定的である。その人が「善」と言えば、それは善であり、その人が「悪」といえば悪となる。従って、その人が「黒」と言ったのに、黒でなかったら、「わたしは辞表を出す」というのは「政治」であり、宗教ではない。宗教的指導者にはそういう「賭け」は許されない。つまり、間違った判断はその人個人の全人生、全人格を賭けても負えるものではない。宗教的指導者には、そういう枷が課せられている。
2.預言者に対する刑罰
本日のミカ書の言葉はそういう預言者が民を迷わした場合の神による刑罰が語られている。ここで預言者ミカが「わが民を迷わす預言者」という言い方をしているのは興味深い。ミカよりも約100年ほど後に活躍した預言者エレミヤなら、はっきりと「偽わりを預言する預言者」(エレミヤ23:25)というところである。ミカの頃には「偽わりを言う預言者」という認識はまだ無かったようである。偽物とか本物というよりも、預言者の堕落ということが問題なのだろう。預言者が果たす社会的役割が大きいだけに、当然ながら預言者への刑罰は一般人に対するものよりもかなり厳しい。
3.政治的指導者への刑罰
預言者への刑罰の厳しさは、政治的指導者への刑罰と比較するとよく分かる。使徒言行録12章には政治的指導者が民を迷わせた場合の刑罰が述べられている。教会が成立して間のない頃、当時のユダヤの王はヘロデであった。このヘロデ王は主イエス誕生の頃の「ヘロデ大王」の孫に当たる人物であったが、このヘロデ王が教会に対する迫害を始めた。当時の「教会の柱」の一人と呼ばれていたヤコブを血祭りに上げたのはこのヘロデ王である。この最初の殺害がユダヤの民衆に大いに受けたので、ペテロやヨハネ等に対する露骨な迫害が始まったのである。彼は自らを「神」として民衆に信仰を押しつけた。彼が演説をするときには、民衆は「神の声だ、人間の声ではない」と叫び続けた(使徒言行録12:22)と記録されている。まさに民衆を迷わす政治的指導者であった。ある日、彼がいつものように「王の服を着けて座に着き、演説をしていると、突然彼は倒れた。使徒言行録の著者は、彼の死に方について「蛆に食い荒らされて息絶えた」と述べている。(同23節)実に悲惨である。聖書の中では、多くの場合、政治的指導者に対する神の刑罰は「死」である。
しかし、預言者に対する刑罰はもっと悲劇的である。しかもその刑罰の恐ろしさは他の人には見えないで、本人しか分からないということである。人を迷わす預言者に対する、最大の、そして決定的な審判は、「神の言が臨まない」という事態である。「それゆえ、お前たちには夜が臨んでも幻がなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない」(3:6)。ある注解者は、ここで用いられている「も」という言葉は不要である、という。夜は来るが幻は来ない。暗闇は来るが、託宣は与えられない。つまり、本当なら夜には幻が与えられるはずなのに、ただ空しく夜が来るだけだ。暗闇はただ暗闇だけである。この何とも言えない「むなしさ」がある。これは実に厳しい。神からのメッセージがない、という空しさは預言者にとって悲劇であり、本人にしか分からない苦悩である。誰とも相談できない。また、相談して解決することでもない。ただ自分一人でこの終わり無き空しさに耐えなければならない。そこで、多くの預言者は、仕方なしに、神の言葉が無いことを隠して、あたかも神の言葉が臨んだかのように、自分の言葉を語る。その言葉には力が無く、命がないパターン化された言葉の繰り返しに過ぎない。「主がわれらの中に居られるではないか。災いが我々におよぶことはない」(11節)。こうなると、それは悲劇を通り越して喜劇となる。
しかし、神の言葉を断たれた預言者への刑罰はそれだけで終わらない。政治的指導者の場合、本人が死ねばそれで終わりである。ところが、預言者の場合、その結末は民族の滅亡につながる。「それゆえ、お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」(12節)。つまり、民族の滅亡である。これが偽預言者の堕落の結末である。
4.預言者が堕落する発端
話しは前後するが、こういう結末に至る発端は何であろう。5節に明言されている。人を迷わす預言者は「歯で何かをかんでいる間は、平和を告げるが、その口に何も与えない人には戦争を宣言する」。この言葉の含蓄は深い。「歯で何かをかんでいる間」とは何か。この隠喩的表現によって指し示されている現実とは何か。いろいろ想像される。要するに、預言者の「口」を満たしてくれる人たちには「平和」を語り、その「口に何も与えない人」には「戦争」を宣言する、ということであろう。この場合、「平和」を語ろうと、「戦争」を語ろうと、いずれにしてもそれは「神からの言葉」ではなく、また語る相手に対する的確な指導でもない。ただ、自分の利害に基づく「ごますり」である。
5.真の預言者
人を迷わす預言者に対する厳しい言葉の真ん中に、真の預言者の姿が描かれている。「しかし、わたしは力と主の霊、正義と勇気に満ち、ヤコブに咎をイスラエルに罪を告げる」(8節)。真の預言者は甘い言葉だけを語るわけではない。むしろ、平和なときは何も語らなくてもいい。真の預言者の最も重要な役割は、罪の告発である。
今、教会に求められている国民的課題は、政治的指導者が方向感覚を失っている状況の中で、真の預言者としてこれからの日本の有り様と方向付けを的確にできる宗教的指導者の出現である。そのためには、先ず教会は「神の託宣」をはっきりと聞かねばならない。緊急の課題であるからといって、何も結論を急ぐ必要はない。「神の託宣」が聞こえない間は、聞くまで待つべきである。はっきりしない間は沈黙を守ればいい。「神の託宣」が聞こえないのに、無理に語るとき、どうせそれはパターン化された人間の言葉に過ぎない。