2005年10月9日  聖霊降臨後第21主日 (A年)


司祭 ヨシュア 柳原義之

8/29
エレミヤ15:19「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。…」
     15:20 「わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す」
9/4
エゼキエル33:10「わたしは生きていると、主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」
9/25
エゼキエル書18:25〜「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

 今年の8月の終わりから次々と主日礼拝で読まれた上記の旧約聖書は、わたしの心に深く突き刺さっています。「わたしの仕えている神、主は生きておられる。」(列王記上17:1)とエリヤは叫びましたが、本当に主は生きておられる、との思いに至ったからです。
 ロバート・デニーロが主演した「ミッション」という映画の中で、印象に残っている場面があります。奴隷商人のロドリゴが愛する女性を取られたその妬みから弟を殺してしまい修道院に行きますが、半年口をきかず、食事もろくに取りません。南米の奥地に住むグァラニー族の村で布教していたガブリエル神父が彼のもとにやってきて、罪を悔い改めるため、もう一度生きることを勧めます。ロドリゴは鎧と剣を大きな網に入れ、それを引きずりながら神父たちと共に一族住む滝の上の村を目指します。
 彼の引きずっている物は、きっと傭兵として生きてきた彼の人生やプライドの象徴でしょう。途中、他の神父がそれを断ち切りますが、ロドリゴはそれを結びなおし再び引きずって歩いていきます。眠るときにも荷物の綱は体に結びつけたままです。途中滝の流れ落ちる断崖を登る時に危うく命を落としそうになりますが、決してそれを離すことはありませんでした。また反対に、自分で命綱を離すこともなく上の村を目指します。
 神父たちがいよいよグァラニー族の村に近づいたとき、1人の子どもが大きな荷物を引きずってくる男を見つけ部族長に言い、もう1人の男がナイフを持ってロドリゴに近づきます。彼は以前この滝の上で奴隷狩りをし、部族の人を殺していたからです。部族長とガブリエル神父が何事かを話し、ナイフを持つ男はロドリゴの肩にかかるその綱を断ち切ります。網に入った鎧や剣は崖の上から川に落とされましたが、それ以上ロドリゴを責めることはありませんでした。
 次のシーンではロドリゴが涙を流します。顔をしわくちゃにして泣き崩れます。それをナイフの男が笑いながら見つめます。顔を持ち上げ、泥だらけの髪の毛をよけて彼の泣いている顔を皆に示します。
つい先ほどまで仲間を殺し、連れ去った憎い男を憎悪の目で見ていた人々が、その涙を見て笑います。ガブリエル神父がロドリゴを優しく抱きしめ、皆が彼を囲みます。奴隷狩りをした罪、人殺しの罪、自分が引きずってきたその重荷を、一番赦してもらえそうにない人から断ち切られ、自分の罪を認めることで心の緩み、涙が流れたのでしょう。「和解」ということを見事に描き出していると思います。
 別に映画の解説をしようとは思いません。その後の展開はDVDなどでご覧ください。しかし、夏の終わりから今に至るまで心に突き刺さる言葉と出来事がこのシーンを思い出させてくれました。
 わたしたち人間はとても不完全で、いつも神様のみ心に沿わずに罪を犯してしまいます。日々犯してしまう小さな罪もあれば、取り返しのつかない大きな罪もあります。旧約聖書に記される多くの人もそうです。神様の恵みを忘れ、その呼びかけに気づくこともなく、背き、離れてしまった旧約の民がいます。その歴史はイエス様の時代にも同様に引き継がれ、やはりイエスの来臨の意味に気づかない人が多くいると同時に、弟子達でさえ、その近くにいながらその意味を知ることができず十字架の側にいることができませんでした。
 しかし、神様は旧約の時代には預言者たちを通し、そしてイエス様を通してわたしたちに語りかけてくださいます。悔い改めなさい、立ち帰りなさい、和解し、生きなさい、と。それでも従えないわたしたちにイエス様は十字架の死をもって、またよみがえりによってわたしたちに教えてくださいました。
 再び生きるチャンスがここにあるのだと、決してわたしはあなたから離れないと。
 「和解」はそう簡単にできる事ではありません。日々起こす小さなトラブルでさえ「仲直り」することは難しいのです。大きな出来事ならなおさらです。でもロドリゴがしたように、自分の重荷を決して投げ捨てたり、人に背負わせたりせず、背負いつつ歩き続ける事、その中で自分が傷つけてしまった人に出会う事。それがすぐにでなくても時間をかけて歩き続け近づいていくことの中で初めて「和解」という「奇跡」が起こるのではないでしょうか。先ほどのシーンで、部族長が仲間を殺し、売った男への罰として「殺せ」と命じれば、ナイフでその喉をかき切ることだってできたはずです。それで復讐が遂げられたはずです。しかしナイフは喉ではなく綱を断ち切った、ここに奇跡があると思うのです。
 映画に再び戻れば、ミッションは決してハッピーエンドになりません。神の意思より国家や組織の思いが優先され、結果的にパラダイスとなった村は焼き滅ぼされ、人間の傲慢さが描かれます。でも最後に、心にない決断を下した枢機卿は法王への報告の中でこう語ります。「死んだのはわたしで、生きているのは彼らです」と。
 人の思いを優先させ続ける事で待っているのは「死」です。神様の命に生きようとするとき、とても大きな苦しみがあるかもしれませんが、その向こうにあるのは「命」です。神様は生きておられます。どんな小さなことも、隠れているものも見ておられます。厳しくとがめられると同時に「立ち帰れ、たちかえれ」と呼びかけてくださいます。この神様の言葉がどの人にも伝わりますように。そして「和解」が起きますように。「奇跡」が起こりますように。
 最初に書いた聖書の日課で飛ばした2つの主日には次のような言葉があるのです。
 9/11 シラ書27:30 「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう」
 9/18 ヨナ書4:4   「お前は怒るが、それは正しい事か」
 
 神様、わたしも本当に罪人の一人です。わたしの中にもたくさんの憤りと怒りがあるからです。でも神様、まだ癒される事のない憤りと怒りの中にある人もいるのです。どうぞ、その人々の憤りと怒り、そしてやり切れぬ叫びをお聞きください。