2005年10月2日  聖霊降臨後第20主日 (A年)


司祭 エッサイ 矢萩新一

ぶどう園に石を捨てたのは誰?【マタイ21:33−43】

 今日の福音書の中に登場する「主人」は神様、ぶどう園を借り受けた「農夫たち」は祭司長や長老たちの姿を譬えている。そして、収穫を受け取るために送られた「僕たち」は預言者、最後に送られた主人の「息子」はイエスだと読み取ることができる。ぶどう園は言うまでもなく、私達が生きるこの世界である。主人は、垣を巡らして搾り場を作り、見張りのやぐらまで用意し、丹精込めて準備したぶどう園を農夫たちに貸した。収穫の時が近づき、僕を送って実りを受け取ろうとした。しかし農夫たちは、主人の僕たちをことごとく痛めつけ、ついには殺してしまい、最後に送られてきた主人の息子でさえも殺してしまったとある。
 農夫たちは主人のぶどう園もその収穫も、自分たちのものにしようとしたのである。ここに大きな過ちがあった。祭司長や長老達は、ヨハネの忠告を無視し、徴税人や娼婦たちが悔い改めて救われた事を見ても信じず、こんなメシアはいらないと十字架に架けて殺してしまった。
 イエスを十字架に架けて殺してしまったのは、自己中心的で傲慢な態度、神様のぶどう園を自分たちの所有物にしようとした行為であった。イエスの示された「愛する」こと、「ゆるす」こと、「一人一人の命を大切にする」ことから私達を遠ざけてしまうのが、この傲慢さや欲である。私たちの生きるこの世界や人生は、神様が丹精込めて手入れをし、預けて下さっていることを忘れてはならない。そして私たちは、そのことを忘れ、傲慢になっていることがないだろうかと自省したい。
 私たちの生きる現代のぶどう園の状況を見てみると、「ゴーマニズム宣言」などと開き直っている者、自分の地位保全の為にあくせくする者、お金欲しさに大切なものを投げ出してしまう者…、そのような農夫たちが働くのは自分自身のためであって、主人のためではない。ぶどう園の実りを手に出来たのは、丹精込めてぶどう園を準備した主人の配慮によることを忘れてはならない。
 また、私達が主人の配慮を忘れ去っている事に警告を発する僕=預言者の声にも耳を傾けたい。預言者はクリスチャンだけとは限らない。社会のあちこちで真実を求めて声をあげている。
 「隅の親石」がイエスだと知る私たちは、捨てた石にしか見えないものが、実は神様からの贈り物であって、人々を幸せに導く不思議な親石であることを少なからず体験している。そのことを忘れずにぶどう園での労働を誠実にこなしていきたい。現代のぶどう園にはたくさんの誘惑があるけれど、神様が準備されたものであること、豊かな収穫の為に多くの僕や息子が送られていることに気付いていきたいと思う。