2005年9月25日  聖霊降臨後第19主日 (A年)


司祭 イザヤ 浦地洪一

「どちらが父親の望みどおりにしたか」【マタイによる福音書21章28−32】

 私たちが信仰を持って生きるということは、神さまからの大きなそして特別の恵みを受けていることを感謝し、ひたすら神さまに喜んでいただけるような生き方をしようと願い努めることだと思います。洗礼を受けてクリスチャンになるということは、そのような生き方をしますと、神さまと約束することです。神さまは、ちゃんと約束を守って、ますます大きな恵みを与え続けてくださっているのですが、さて、私たちのほうはどうでしょうか。約束違反、約束不履行の連続で、そんな約束など忘れてしまったような生き方をしてしまう毎日です。
 クリスチャンに、ベテランのクリスチャンとか、熟練クリスチャンというのはあるのでしょうか。わたしは何代目のクリスチャンです。洗礼を受けて何十年になります。「わたしは救われて何十年になります」と、自己紹介などしているのを聞くと、「おいおい、ほんとに救われているの? 自分でそう思っているだけ!」と言いたくなります。
 教会とは、「信仰共同体」とか「礼拝共同体」だとよく言われます。主日礼拝は教会の顔です。主日礼拝こそがその教会の実態をあらわしています。信徒、求道者の一人ひとりが、それぞれ違った生活の事情を持って、生活の背景を背負って、一定の時刻、一定の場所に集まり、「さあ、礼拝を始めましょう!」と礼拝を始める時、その個人の集まりが一つとなり、「共同体」の一人になります。共同体として感謝と賛美をささげます。私たちの礼拝は、「個人の礼拝」をたまたま集まってしているのではありません。私たちが主のみ名によって集まるとき、そこに主がおられます。み言葉と聖餐によって癒され、励まされ、新しくされて、そして、個人のそれぞれの生活にもどっていきます。
 仕事があるからとか、ヒマがないからとか、ほかに約束があるからと、時には礼拝に参加できないときがあり、遅刻をしてしまうこともあります。しかし、その時には神さまとの約束や、礼拝のほんとうの意味を忘れてしまっていることが多いのではないでしょうか。
 いちばん最近、洗礼や堅信式を受けた人が、この間まで、神さまのことを知らず、神さまを神さまとも思わず生きていた人が、今、誰よりも早く礼拝堂に来て、礼拝が始まる前にひざまずいている姿を見るとき、どうか「ベテランのクリスチャン」になりませんようにと願ってしまいます。
「二人の兄弟のうちどちらが父親の望みどおりにしたか」、「あなたたちより先に神の国に入るのはどちらか」と問われる声が聞こえてきます。