司祭 エリシャ 富田正通
理不尽な扱いの内に秘められた恵み【マタイによる福音書20:1−16】
聖書をお持ちでない方のためにあらすじを述べます。
「天の国は次のようにたとえられる。ぶどう園で働く労働者を雇ったが、早朝に雇った人と当時の日給に相当する金額で契約しました。その後、9時、12時、3時に相応しい賃金を払う約束で数人を雇いました。5時ごろ、仕事にあぶれた人を雇いました。夕方、刈入れが終わり、遅くに来た人から賃金を渡していきました。最初の者たちは自分たちは多く貰えると期待していたが、皆が同じ賃金だと分かったとき、主人に不満を言いました。しかし、主人はすべての者を同じように扱ってやりたいといいました。」
イエス様が話された天国の譬えです。天国には早く入った人も、遅くに来た人も同じ扱いを受け、天国に入るため散々苦労した人も、あまり努力が出来なかった人も、ひとたび神様の恵みに浴して天国に入ると平等に扱われるということです。しかし、人間のさがはそれに不満をおぼえ、不平を訴えます。あなたならどうしますか。
高校生たちにこの話をしたとき、早朝から働いた労働者を支持する声が圧倒的でした。「自分がバイト先でこのような仕打ちにあったら耐えられない」というのです。「時間給をきっちり払うのが平等だ」と言います。
私は、「この譬えが話された時代は貧しい人が多く、その日暮らしで、蓄えが無く、貰った賃金で家族が食事をしたのだ。職にありつかないことは飢えを意味するのだ。着の身着のままで、下着を二枚持っている人はまれという貧しさを想像してほしい。そのような状況下での話なのだ。」と言いましたが納得してくれません。説明も悪かったのでしょうが、豊かで、生活の実感が無く、家族に責任も無い高校生に分かってくれと言うほうが無理かもしれません。
話は変わりますが、9月11日衆議院議員選挙の日の毎日新聞「余禄」に「『我が身の一尺は見えぬ』ということわざがある。」という書き出しではじまり、政治学者京極純一の言葉を引用しながら、「しっかりと投票しよう」と訴えます。人間は目が外向きに付いているので、自分の事より他人の粗が目に付き、自分に甘く他人に厳しくなる。まして政治家は我が身の一尺を決して言わず、他人を攻撃すると言います。選挙戦の論争はかなりなものでした。
今度の選挙で刺客をめぐって、いろいろあります。長年同じ釜の飯を食べ、労を共にしてきた人が郵政民営化に反対したら、マドンナまでが登場して、政治生命を脅かされるようになり。比例区では自民党のために長年尽くしてきた人を押しのけて、刺客やマドンナたちが上位を占める世の中。
まるで早朝から働いた労働者のような不満が渦巻いていますが、自民党圧勝の中ではいずれ吹き消されるでしょう。不満を言えば刺客を放たれるかもしれませんから。
「我が身の一尺は見えぬ」世界と「我が身一尺が見える」世界。どちらが住みやすいでしょう。
この譬えの主人は、日々の生活に追われている貧しい労働者にとても優しいまなざしを向けています。5時ごろに主人は5度広場に向かいます。職にあぶれ、仕事を求めて広場に来た人はいないかと、その人たちのうめきにも似た叫びを耳にしていたと思います。今日の糧を得られず、むなしく帰宅したときの妻や子供たちの絶望を何度も味わっている貧しい人たちの叫びです。広場に着くと「なぜ、なにもしないで一日中ここに立っているのか」と聞きます。彼らは「誰も雇ってくれないのです」と答えます。そこで主人は「あなたたちもぶどう園へ行きなさい」と言います。
この労働者は、まさか一日分の賃金を与えられるとは思っていませんでした。夢のような喜びを感じた事でしょう。それに対して、「おっ、この主人は寛大だぞ、俺たちは早朝から働いたからきっと割増賃金を貰えるだろう」と自分の功績に期待していた労働者は、主人の「友よ、あなたに不正をしていない。自分の分を受け取って帰りなさい」という言葉にがっくり来てしまいます。
主人は、正当な権利のある者に正しく接し、権利の無いものにはその人の必要を満たしました。主人を神様と置き換えたとき、神様は天国に入る資格の無いものにも求め続けていれば入り口を開いてくださいます。その鍵はイエス様の十字架です。
詳しいことは教会でお聞き下さい。