2005年9月11日  聖霊降臨後第17主日 (A年)


司祭 ヨシュア 文屋善明

復讐と寛容【シラ書27:30−28:7】

1.シラ書について
 シラ書のもともとの名称は「シラの子イエスの知恵」である。この書に付けられている序文の中で、「シラの子(ベン・シラ)」がへブル語で書いた「知恵の書」をその孫がギリシャ語に翻訳したものである、と語る。この序文そのものも非常に興味深い。
 ところが、後の時代に教会(ロマ・カトリック)においてラテン語に翻訳されたときに、どういうわけか「教会の書」という名称が付けられた。現行聖書では「集会の書」と訳されている。おそらく、この書の内容が信徒たちの教会生活(信仰生活)をより豊かにするための様々な教訓が語れており、そういうものとして用いられたからであろうと思われる。
 実際に読んでみると、わたしたちの日常生活を営む上で非常に示唆に富んだ有益な教訓が多く記されている。

2.キラリと光る言葉
 シラ書はいわゆる旧新約聖書(66巻)には含まれていない。現在の新共同訳で初めて旧約聖書続編として出版されたので、プロテスタント諸教会の信徒たちにはあまりなじみのない書物である。また、聖餐式の日課においても、A年で2回、C年で1回読まれるだけなので、滅多にお目にかからない。それで、本日は少し変則的な説教のスタイルになるが、シラ書を紹介する意味で、「キラリと光る」いくつかの言葉を紹介したいと思う。しかし、実際に拾い出すと「キラリと光る言葉」はあまりにも多く、選ぶのに困るほどである。

  (A) 先ず、最もわかりやすい言葉から始める。
「もらうときに手を出すなら、返すときには出し渋るな(4:31)。日本の諺で言えば、「借りるときの地蔵顔、返すときの閻魔顔」である。英語でも、似かよった言葉がある。「An angel in borrowing, a devil in repay」。どこの国にも同じような格言があるものである。事柄自体が、万国共通なのだろう。しかし、シラ書の言葉には「行動」がはっきりしている。この「手を出す」という言葉を「握手する」と解釈すると、いろんな場面が想像される。こういう言葉ならば、何も聖書から学ぶ必要はない。日本の格言にも多く視られるものである。
  (B) それで、次にいかにも聖書的な言葉を紹介しよう。である。
「『罪を犯したが、何も起こらなかった』と言うな。主は忍耐しておられる」(5:4)。何か悪いことをして、それがばれないか、どうか、冷や冷やしていたが、結局何事もなく過ぎてむしろいい結果を生んだ場合、わたしたちはホッとして、悪いことをしたことを深く反省しない。こういうことは、わたしたちはしばしば経験する。しかし、ここで、「主は忍耐しておられる」という事実を忘れてはならない。
  (C) 次の言葉は「誠実な友」(6:5−17)というサブタイトルのもとに語られている。この部分はすべて紹介したいほどであるが、とくに「キラリと光る」14節だけを紹介しよう。
「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見出せば、宝を見つけたも同然だ」(6:14)。先ず、わたし自身がそういう友人でありたいと願う。
  (D) 次は、女性について(9:1−9)の教訓。少しセクハラ、ギリギリという感じがする。しかし、男女の関係についての知恵が光っている。時代と民族性とを考慮して理解したい。
「おとめをじっと見つめるな。慰謝料を払わされるはめにおちいるかもしれない(9:5)」。人間には「男」と「女」だけだという思想は、現代では通用しない。それを考慮しても、男女関係というものは複雑である。とくに「引き合う関係」と「反撥する関係」とは個人の制御能力を超えて働く。
  (E) 次に紹介する言葉は、わたしの現在の心境を語っている。この言葉だけでも覚えておいて欲しい。
「どんな人に対しても死を迎えるまでは、その人のことを幸せだと言うな。人間は、その子供によって、本当の姿が知られるのだ(11:28)」。この言葉は、その人の人生は「死」で終わらないことを語る。「生きざまと死にざま」は子どもへと受け継がれる。その子どもにおいて、総括される。信仰は、孫に伝承されて初めて伝承される。
  (F) 次の言葉も真の友についての教訓。
「幸福なときには、真の友を見分けられない。不幸なときには、誰が敵かはっきりする(12:8)」。この言葉には何のコメントも不要であろう。
  (G) 次の言葉はわたし自身に向けられた厳しい言葉である。
「黙っていて、知恵ある人と見られる者もあり、しゃべりすぎて、憎まれる者もいる(20:5)」。実に、厳しい。
  (H) これと類似している言葉をもう一つ。
「愚か者の心は口にあり、知恵ある人の口は心にある(21:26)」。この言葉は理屈で考えると理解不能であるが、直感的に理解したい。
  (I) おまけにもう一つ、
「時をわきまえない小言は、葬式のときに、にぎやかな音楽を流すようなもの(22:6)」。これは面白い。
  (J) 最後に、思わず笑い出す面白い言葉を紹介しよう。
「愚か者に説明するのは、うたた寝をしている人に話すようなもの。説明したのに、『何のこと』と問う(22:10)」。場面を想像してください。

 これだけ紹介したら、是非自分自身で読みたくなるだろう。シラ書にはこういう言葉が1章から51章まで、105頁にわたって、ぎっしり詰まっている。まさに、これぞ聖書という感じである。

3.本日のテキスト27:30−28:7
 さて、これで終わってしまったら、今日の説教はただ単にシラ書を紹介しただけの講義である。それでは説教にならない。最期に本日のテキストを取り上げて、共に考えたい。本日のテキストは、27:30〜28:7である。新共同訳では「憤り」というタイトルが付けられている。この憤りという感情の処理の仕方が「復讐か寛容」である。
 この言葉の背景には前提になる一つの思想がある。この思想は日本人にはなかなか理解できない。つまり、人間は神の寛容なくしては生きられないという思想である。そして、今日の言葉はその神の寛容を得るための手段が述べられている。「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される(28:2)」。相手の立場を考えてとか、普遍的な正義を求めてという寛容ではない。つまり、相手のためを思っての赦しとか寛容ではなく、あくまでも自分が神からの寛容を得るための寛容である。
 その意味では、ロマ書12章17節以下の使徒パウロの復讐の思想と通じる。(この言葉は先週の使徒書で読まれた。)「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる(ロマ書12:20)」という思想である。つまり、「手段としての寛容」である。
 こんな寛容は本物ではなく、偽善的である。心から許すのでなければ許したことにならない、という良心的な、理想主義的な寛容の思想もある。わたしがまだ青年であった頃、そういう説教を聞いて感動したものである。「Forgive is forget.」 許すことは忘れることである、という考え方である。しかし、現実的にわたしたちはそれ程立派ではないし、清らかでもない。歯ぎしりしながら、「馬鹿野郎」と心の中で叫びつつ、顔ではニコニコ微笑みながら、許すということしかできない。その意味では、そんなに純粋にはなれないのが現実的なわたしである。あるいは、「わたしたち」である。本日の聖書の言葉は、それでもいい、と言う。復習の一手段としての我慢でよい、と言う。偽善的な善行でもいい、と言う。
 「自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ(28:6)」。平安な人生の最期を迎えたいと思ったら、心安らかにこの世を去りたいと願うなら、寛容であれ。人間は墓場まで憎しみと復讐心とを持ち続けることは出来ない。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と神は言われる(ロマ書12:19)。本当の意味で、復讐するのは神の仕事であり、人間の復讐などは知れている。むしろ、人間が復讐することによって、神の復讐が終わってしまう。復讐は神に任せよ。それが、わたしたちの寛容心の根拠である。