2005年8月14日  聖霊降臨後第13主日 (A年)


司祭 クレメント 大岡 創

 「カナンの女の信仰」と呼ばれるこの箇所では苦戦しておられるイエスの姿に見受けられます。助けを求める人に妨げられる?同時に助けを求める人に無関心ではいられなくなるという場面だからです。イエスの言われた「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉はショッキングです。差別的なのか、挑戦的なのか、それとも教育的なのか。親愛を込めて言われたとしても受け止めるのは容易ではありません。愛は具体的なもの。誰かを本当に愛する場合には必然的にその人の愛の対象からはずれる人がいる・・・という解釈もあります。
 でも、カナンの女は神さまの救いから遠い所に置かれて、そのように見られてきた者であることを謙虚に認めます。また、神の恵みはイスラエルにある者に注がれている、ことに矛盾を感じていたのでしょうか。神の憐れみと恵みへの深い信頼が立場や区別を越えて彼女自身の叫びとなっていきます。娘を救うには今の自分にはなすすべが他になく、神の力に頼るしか選択肢がないという差し迫った状況だったのでしょう。
 少し外れますが、会社勤めをしていた時に相手先に大きな損害を与えてしまい、思わず土下座をしてしまったことがあります。今から思うと他にも解決を方法があったのかも知れませんが・・。
 謙虚さと傲慢さとは紙一重といわれます。わたしたちの中にも「生かされている自分」を素直に感謝できる自分と「チョッとした才能や頑張ったことを認めてほしい・・・・実績を評価されることを自分の手柄としたい自分」とがあります。
 しかし、心のどこかで何も持たずに素手で、何にも頼らずに相手と向き合える自分をわたしたちは求めているのではないでしょうか。謙遜とは決してゆとりのある中から差し出せるとものではなく、その人が差し出せるたった一つのその人にしかできない真剣な姿なのかもしれません。この謙遜からいつか必ず聞き入れて下さる方を期待する姿が生まれてきます。
 わたしたちは自分が苦しむ時、神が沈黙しているかのように感じこともあります。でも今を「生かされている私」を受け入れるとき、初めてすべてのことを神さまに期待することができるのではないでしょうか。
 神さまの大きな御力の中で生かされたいというカナンの女の信仰の在り方からイエスご自身も多くのことを気づかされていかれたことも覚えたいと思います。