2005年8月7日  聖霊降臨後第12主日 (A年)


司祭 ヨシュア 文屋善明

神からの逃走【ヨナ書2:1−9】

1.ヨナ書
 ヨナ書はわずか4章しかない短い文書である。預言書というよりも、神と預言者との戦いを語る文学と言う方がふさわしいと思う。全体は前半と後半とに分かれ、主題もそれぞれ異なる。前半は神の命を受けた預言者が神から逃走する物語であり、後半は神の心変わりが主題となっている。
 神からニネベの町での預言活動を命じられた預言者ヨナは、その派遣を拒否して神から逃走する。いろいろあって、ヨナはとうとう「大きな魚」に呑み込まれてしまう。そこはまさに地獄の底である。マタイはそれを「大地の中」(マタイ12:40)と言い、死者の世界であることを暗示している。そこまで落ちて、ヨナは神に祈る。今日のテキストはこの時のヨナの祈りである。5節にヨナは「御前から追放されたと思った」と言う。つまり、神から逃走していたつもりが、地獄の底に至って、「神から追放された」(2:5)と思う。「逃走」なのか、「追放」なのか。確かに、始まりは神からの逃走であった。しかし、海に投げ込まれたときから、「逃走」から「追放」に変わった。追放とは「罰」である。神から逃げたから、神から罰を受けた。

2.神からの逃走
 「神から逃げたから、神から罰を受けた」というテーマは、旧約聖書の最も大きな問題の一つである。というよりも、人間の有り様を問う最も根本的な問題といってもいい。最初の逃走物語はアダムとエヴァから始まる。あれは、確かに神からの逃走劇だった。彼らは「隠れた」のである。そして、神からエデンの園追放という物語が続く。マックス・ピカートというスイスの哲学者は「神よりの逃走」という名著を著した。人間は人間の本能として、神から逃げる。人間は自分自身の判断によって生きようとする。黙って、自然のルール(本能)に従うことに我慢ができない。人間の本能とは自然の本能に逆らう本能である。言い換えると、人間は神が作られたままの人間であることに止まることができない。人間は常に自分を越えて自分になろうとする。それが、神からの逃走である。神から逃走した人間は神の顔を避ける。そして、絶えず不安の中に生きることになる。それは追放された人間の不安である。

3.神無き世界
 ヨナの物語は、神から追放された人間として、この世に何の未練もなく、この世に対する使命もなく、生きる意味を持たない。と思い、そう信じて生きている。魚の腹の中とは、まさにそういう状況である。そこには、一切の希望が断ち切れた状況である。神なき世界である。とヨナは信じて生きていた。彼は、そういう状況の中で、絶望の中で、無意味な祈りを捧げる。誰に。無い神に対してである。ともかく、そういう理屈は一切切り捨てて、ともかくヨナは祈る。
 ヨナ物語のメッセージはここから始まる。ここまでは神話である。ここまでは伝説である。しかし、何時までも伝説ではない。ここからヨナ物語のメッセージが始まる。ヨナの無意味な祈りが神に届いた。無い神がヨナの祈りに応えられた。この経験がヨナを変える。ヨナは大きな魚の腹の中からこの世に帰還する。腹の中から帰還しただけではない。神からのメッセージを携えた人間へと帰還した。

4.ニネベにおけるヨナの活動
 この経験を携えてヨナはニネベの町にやってくる。地獄を経験した人間は強い。「悪の町」として有名であったニネベの町も地獄から帰ってきたヨナの宣教活動によって「悔い改めの波」が起こり、王を始め全国民が悔い改めたという。