司祭 マタイ 西川征士
「主の執り成しと祈り」
本主日の課題は、特祷等から察して、「祈り」についてのようです。信仰生活では「何を願い、どう祈るか」はいつも私達の問題であります。
特祷が示すように、神様が先立って聞き、願うより先に私達の必要を知り、多くの恵みを与えられるというのであれば、それなら、何も祈る必要すらないではないかと思われるかも知れません。しかし、信仰・祈りは、神様への「応答」「自己表現」でもありますから、神様が先に私達の必要を御存知でも、自分達の言葉で表現し、祈らねばなりません。
今日の旧約日課では、ソロモン王の模範的な祈りの例が示されています。ソロモンが王になる時、民を正しく治められるように、人々のために自らが善悪を正しく判断できるように「聞き分ける心」をお与えください、と祈りました。
主御自身から「何事でも願うが良い」と言われたソロモンであるのに、彼は自己利益のため、殊に、長寿を祈るでもなく、富を求めるのでもない。敵の命を求めるのでもなく、他ならぬ民のために、よく治められるように「聞き分ける心」を願ったとして、主から大変ほめられたようです。
とは言うものの、私達にとっては、「どう祈るか」は本当に難しい問題です。主の前にしばしば私達は口が利けなくなるのです。そこで、使徒書では聖パウロも「"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。・・・・・霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」と 私達を励ましてくれるのです。
「執り成す」は旧約・新約を通じて大切な言葉で、「仲介する」と同じです。
モーセは、神とイスラエルの人々の間で「仲介」の役割を担った人です。又、多くの預言者達は、神と人々の間で、神の側に立って、神の語られる言葉を「仲介」して語った人々ですし、「祭司」達は逆に、イスラエルの人々の側、人間の側に立って、神に犠牲を捧げ、「仲介」の働きをしました。
そして、イエス・キリストは明らかに神の側に立ち、比類のない「仲介」の働きをされた方です。殊に、十字架・復活は、神と人間の間の究極の橋渡しでありました。人間は自己の罪から決して解放されない存在であるのに、主は憐みをかけ、神の側と人間の側の両側に立って「和解」のつとめ、「執り成し」のつとめを完成されたのでした。主イエス・キリスト様は究極の「仲介者」であるとの信仰は明白であります。
私達の救いは、神様との直接交渉で与えられるのではなく、「仲介者」「執り成し主」であるキリスト様を通して与えられます。ですから、祈りも、キリスト様の「仲介」によって、父なる神に取り次がれ、父なる神の心もキリスト様の「仲介」によって私達に語られるのです。このため、私達の祈りはいつも、「キリストの名によって」「キリストを通して」キリストによって」祈られます。
キリスト様と、その霊は、私達全ての者と父なる神様との間に立たれる「仲介者」「執り成し主」であります。それ故に又、キリスト教の祈りは、結局、キリスト様に対して、「執り成し」を願う祈りであることをも知らねばなりません。
更に、「教会はキリストの体」であるとも教えられていますから、教会というものの地上での役割も又、神と人々、神と世界(社会)の間に立って、「仲介者」となって「執り成し役」であるということも明らかです。そこに、教会は世界中の全ての人々のために祈り(代祷)、奉仕し、生きるということが最大の存在理由となるのです。
又、教会は聖職者達だけが「執り成し役」を担うのではなく、信徒一人一人を含めた「教会全体」が、この「執り成し」のつとめに招かれていることをも、併せて覚えたいと思います。
みなさんの上に、主の豊かな「執り成し」があるように祈って止みません。