司祭 テモテ 宮嶋 眞
毒麦のたとえ話
「たとえ」とは?
イエスさまが、たとえ話を語られるということはどういうことだったのでしょうか。
「たとえ」という言葉のもとの意味は、二つのものを平行して並べてみる、比べてみるということです。
それによって物事がすごく分かりやすくなる部分と、受け取る人によっては謎のように煙にまかれてしまうということが起こります。「たとえ」で思い出すのですが、高校1年生くらいで習った英語の慣用句の中に、"Sushi"
without "Wasabi" is like a hug without a kiss. (ワサビのない寿司は、ちょうど、キスのない抱擁のようなものだ)という表現がありました。大人びたたとえで、その意味が分かっているよと背伸びして使っていたのですが、実際にはその後半部分が何たるかを、分かっていないということであったようにも思います。イエスさまのたとえも、分かっているようで分からないところがあります。その意味を探っていくところに豊かさを感じます。
毒麦のたとえとは、
畑によい麦を蒔いたはずなのに、人々が寝ている間に、敵が来て毒麦を蒔いたため、毒麦が生えてきたというところから始まります。「すぐに抜きましょうか」という提案に対して、主人は「いや、刈り入れのときまで両方とも育つままにしておきなさい。そうでないと、悪い麦を抜こうとして誤ってよい麦まで抜いてしまうから」というのです。そして、刈り入れのときにまず毒麦だけを抜き出し、その後よい麦の収穫をしなさいと言ったのです。
先週の種まきのたとえの話の中にも、神さまの言葉が受け入れられない条件(道端、石地、茨)が出てきました。ここでは、「敵」がやって来て、毒麦をまいていくという、さらに積極的な邪魔が入るということがおこります。当時の教会・世界は、今もそうですが、神に対抗する勢力が、激しく沸き起こってきていたのでしょうか。しかし、この箇所の次に出てくる「からし種」「パン種」のたとえ話が、神の国の無限の成長を語っていることと考え合わせると、この毒麦のたとえは、「どんなに積極的な妨害があろうとも、終わりの時には、神さまは必ず勝つ。だから、心配しないで刈り入れの時まで、待ちなさい。」という、終わりのときの、神の力への絶対的な信頼を表したメッセージだったとみてよいでしょう。
ですから、今日のポイントは、私たちにとって「毒麦は見分けがつくのか?」ということになります。
答えは、ノーです。イエスに信頼して、イエスのもとに集まってきた人々は、多種多様な人々でした。社会的に重きをおかれていた人から、道徳的にも問題ありと、社会から白眼視された人々、病気の故に隔離された人、社会的に力の弱い存在の人、罪人と呼ばれる人々など、いろいろでした。一見すると、「毒麦なのではないか」、「神の国の成長の妨げになる人々ではないのか」と思えるような人々がたくさん集まってきたのでした。しかし、イエスはその一人一人をしっかりと受け止めていかれました。そしてそれらの人々は、イエスによって救われ、イエスのメッセージを伝えていく大切な証人とされていったのです。
私たちもまた、神さまに信頼するならば、自分なりの基準を持っていることは大切ですが、それを絶対視してしまうことなく、謙遜に、様々な人々、特に社会の中で弱い立場に置かれている人々を受け止めることができるようになりたいと願うのです。
このように書いているところに、ロンドンで大規模なテロ事件が起こったとのニュースが飛び込んできました。「テロリストも許して受け入れよというのか」という疑問が湧いてきます。少なくとも、誰であろうと、人を傷つけ、殺す暴力(直接的暴力)は断じて許せません。しかし、同時にテロが生じてくる背景にある世界の経済情勢、社会情勢の中での貧富の差、力の差、大国の暴力(構造的暴力)といったものに対する、彼らの発言にも、謙遜に耳を傾けねばならないと思います。そうでないと、「毒麦をすぐに抜いてしまえ」ということになりはしないかと思うのです。