司祭 ヨブ 楠本良招
「小さな出来事」
緑豊かな山と海の故郷和歌山の地に19年ぶりに帰り、なつかしく思い返しています。どこを散歩しても、緑が目にしみました。牧師館が別棟になっていることが、今までは幼稚園舎の階上が牧師館でしたからいつも園児の声が下に聞こえていたのですが、今は不思議な気がしています。幼稚園に鶏(雄)を飼育しています。まだ夜があけない早朝4時頃に「コケッココ」と鳴くので、まず目が覚めます。何度と鳴き続けますが、一体どこまで鳴き声が聞こえるのか試すと、遠くは電車の踏み切りあたりまで聞こえています。近所に迷惑になっているのかと思ったりします。ペトロが、鶏が3度鳴くまでイエスを知らないと否定した時、激しく泣いたと記されています。わたしは園の鶏にペトロの鶏とひそかに名づけています。この鶏の好きな園児がいます。帰りの時間には、鶏小屋の近くまで行って覗くことが日課となっています。よほど動物や亀や金魚が好きで、よく家から動物図鑑を持って来て安心している3才の男の子です。その関心事に驚かされます。鶏小屋までいくのですが、中を覗くとつつかれそうですので、恐る恐る小屋近くまでしか近寄りません。朝早く園の周りを掃除しますと、鶏が甘えた鳴き声をするので、鶏も人恋しくなっているのかも知れません。鶏の鳴き声が遅いと、何かがあったのだろうかと思ったりします。鳴き声が待ち遠しくなったのでしょうか?。また小さな池には、金魚すくいの残りの金魚がかなり沢山います。園児たちがえさをやったりしていますが、えさをやらなくとも園児がそばに行くだけで金魚が集まってくるのも不思議です。
さて、初島の土地を覚えたいと思い、毎朝30分から40分位散歩しています。今日はどこ迄、明日はどこへ行こうかと楽しみながら出かけています。見知らぬ人と出会っても、「おはよう、散歩?」と声をかけてくれます。渡船業者や民宿の人は早起きで、店の前を通ると、「おはよう」と会釈してくれます。汐が川に入り込む様子を詳しく説明してくれます。ある日、つれあいが園の周りを掃除している時、近所の人が今度いつかとてもきれいな所へドライブに連れて行こうとの話に、若干とまどいながらも、うれしそうに話していました。
今週の福音者は、マタイよる福音書の最後の節に「はっきり言っておく、わたしの弟子だという理由で、この小さな者一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(11章42節)と記されています。一杯の水は喉の乾きを癒してくれます。力や権力のある人にではなく、どの人にも分け隔てなく、喉の渇く人に水をあげる。この「小さな者」は迫害にあるキリスト者の意味が込められていますが、今の時代的背景とは異なります。鶏の鳴き声や、動物好きの園児たち、散歩での挨拶や説明、近所の人の親切さ等は、私は小さな者たちへの水一杯の小さな出来事と思っています。緑の木々と山々、きれいな川、美しい海は、私にとっては魂に一杯の水となり、安らぎと癒しを与えてくれる気がします。