2005年6月12日  聖霊降臨後第4主日 (A年)


司祭 ヨハネ 古賀久幸

「ただでうけたのだから」【マタイによる福音書9:35−10:8】

 看護学校の卒業式に参列したことがあります。これから人の命を預かる尊い仕事の第一線に赴こうとしている顔には神聖な使命感に満ちた緊張の表情が伺えました。誰から言われたわけではないけれど、大きな力によって使命を与えられ押し出されたと感じる一瞬ではなかったでしょうか。「派遣(ミッション)」と言います。
 キリストに押し出されようとしている人々がいました。病気の原因は汚れた霊の仕業だということで、病の根を引っこ抜く権能を与えられた12人の弟子たちです。「これでイエス様の役に立てる」最近まで徴税人としてさげすまれていたマタイや、一介の漁師ペトロにとってはやっとめぐってきた活躍の場です。力は体にみなぎり、胸は純粋な使命感に張り裂ける思いでした。実際、彼らは病気を癒して大きな実りを刈り取ることができました。ところが彼らは燃え尽き、あるいは挫折してこの派遣の任務を一度放棄してしまったのです。イエス様の十字架の死の後、漁師などの元の生業に戻った者もいたのです。
 崇高な使命感をもって始めた仕事でも、時がたてば慣れや不満が出てくるものです。使命を見失うこと、迷いや疲れ、行き詰まりもあるでしょう。仕事を単に目的として働いてしまう危険がいつもあります。使命を達成するためにはいろいろな方法がありますので、一つの仕事にこだわる必要は無いと思いますが、仕事を変えても同じ思いにやがて捕われます。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とイエス様は弟子たちにアドヴァイスされました。自分の力や能力に頼っている限りいつかはエネルギーは枯渇し燃え尽きてしまいます。イエス様は私たちが願う先に願う以上にたくさんのことを与えてくださっています。リフレッシュのコツは与えられたことをまず振り返ることなのです。
 キリストに用いられることは素晴らしいことです。病人を癒したり奇跡を起こすことはできないけれども、わたしたちもそれなりにキリストによって用いられています。ただで受けたことを思い起こすという原点を見失わないようにしたいものです。