2005年5月1日  復活節第6主日 (A年)


司祭 セオドラ 池本 則子

「イエスさま」の思いと共に

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)

 イエス様が中央にいる。その両脇に手をつないだ人たちがいる。私のイメージする上記の聖句のカットです。これは、私が母教会で編集委員として作成した文集の表紙に描かれたカットであり、その文集の聖句がこのぶどうの木でした。
 私たちは「イエスさま」というぶどうの木につながれている枝です。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、私たちもイエス様とつながっていなければ、豊かな実を結ぶことはできません。イエス様は私たちが豊かな実を結べるように「わたしにつながっていなさい」と常に手を差し伸べてくださっています。
 私たちはいつもイエス様とつながっていて、イエス様によって豊かな実を結びたいと思います。では、どうすればイエス様とつながっていることができるでしょうか。それは、イエス様と共に歩むことです。イエス様の思いと共にあることです。イエス様は当たり前に人間として生きることのできない人たちにいつも心を向けられていました。すべての人が尊い命を持ったかけがえのない人間であることを示して来られました。今でもすべての人が平和に暮らせるようにと心をかけてくださっています。時には悲しいことや苦しいことがあってもいい、貧しくても勉強ができなくてもいい、人より優れた才能がなくてもいい、体が弱くてもハンデや病気を持っていてもいい、何もできなくてもいい。でも、愛し合い、共感し合い、助け合い、支え合って生きることができる仲間がいる。喜びや希望を持つことができる。それが、イエス様の思いです。しかし、戦争や紛争、テロ、独裁政権などによる犠牲者、思想・信条などの違いによる差別や迫害に苦しむ人たち、マイノリティーとして社会の片隅に追いやられている人たち、個人的な暴力や虐待に怯える人たちなど、一部の心無い人たちによって生きる喜びも希望も持つことのできなくされている人たちが何と大勢いることでしょうか。イエス様の思いが完全に踏み躙られているのが現状です。
 最初に述べたカットは、ただ一人一人がイエス様とつながっているだけではなく、イエス様を通してさらに他者ともつながっている、ということを表していると思います。イエス様と同じまなざしを持って、当たり前に生きられない人たちに思いを向ける時、初めて実を結ぶことができるのではないでしょうか。直接手を差し伸べることはできないかもしれません。でも、まずその人たちに思いを馳せ、祈ることが大切だと思います。
 「イエスさま」というぶどうの木につながれている枝である私たちは、平和実現というイエス様の思いを共にすることによって豊かな実を結んでいきたいと思います。