2005年4月3日  復活節第2主日 (A年)


司祭 ミカエル 藤原健久

罪からの解放

 イエス様の復活は、私たちを罪から解放してくださるものだった。そう聞いて私たちは、何やら自分が「清められた」ような気がする。そうかもしれないが、イエス様はより深く「罪」という見方から私たちを解放してくださったのではないだろうか。
 罪の反対は正義である。「罪」という見方から得られる生き方は「正しく生きましょう」というものだろう。イエス様の周りにいてもっとも身近に福音を受け止めた人々は「罪深い」とされた人々だった。「正しく生き」ようとしても、自分の置かれた状況や個人的な心身の「弱さ」から、出来ない人ばかりだった。彼らは福音を受けて心から喜んだ。イエス様の福音は「正しくなくて良いんだよ」というものではなかったか。「正しさ」とは違う生き方を示してくださったのではないだろうか。
 先日ある論文と出会った。社会学の論文なのだがその中に「罪」の生き方を超えるものとして「恥」をあげていた。「罪」は事故を自己を超えるもの:神さまや「社会」など――と自分との関係の中で発生する。つまりは自分の内部で、自分を律することが強調される。それに対して「恥」は自分の失敗を人々の中でしてしまうときに感じる。「思いがけず自分を感じた人々の前にさらすこと」が恥である。恥を感じた人は人々との交わりを感じた人である。恥の反対は「優しさ」と言えるのではないだろうか。
 イエス様は十字架で自分をさらされた。最大の恥をかかれた。復活されたイエス様が最初にされたのは、弟子たちに「おはよう」と言うこと。つまり交わりを回復することだった。「正しい」人は時に冷たさを感じることがある。正しさが「強さ」になり他者への押し付けや排除につながることもある。「優しさ」は人と出会うことから始まる。「憂いのある人の側に立つ」が字の由来と聞いたことがある。具体的な人の出会いが優しさを生み出す。
 「正しくなくて良いんだよ。優しく生きてごらん」とイエス様は語っておられるのではないだろうか。