司祭 ヨシュア 柳原義之
朝、登校中の高校生たちの中に、手に携帯電話を持ち、誰かと話しながら自転車に乗っているのを見る。また道交法が改正されてもなお、ハンドルを持ちながら話している人を見る。中には教会へ向かう1時間の道のりのほとんどを話しながら運転している人を前に、腹立たしい思いをすることもある。いったい誰と話しているんだろう。そんなに誰かとつながっていなければ不安なのだろうか?お笑い番組で、「着信アリ(ホラー映画?)も怖いけど、一日中着信ナシはもっと怖い」と爆笑をとっていた。
誰かとつながっていること、どんな馬鹿話でもいいからとりあえず私が誰かとつながりあっていれば安心している、そんな現象が今の世の中にあふれているように思う。それはきっと裏腹に、一人になることに耐え切れない、そんな思いが多くの人の心の奥底にあるからだろう。
復活前の週はイエスの最後の週を追体験する週でもある。エルサレムの神殿に入り、為政者、支配者たちの反感を買い、十字架への道に近づいていかれるイエス。弟子たちと最後の食事をし、弟子たちの足を洗い、互いに洗いあうようにと教えられるイエス。動揺を隠せない弟子たちの姿と、闇にまぎれてイエスを裏切ろうとして出て行くユダ。ゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈るイエスと、そのことを理解できないで眠りこける弟子たちの姿。ユダの合図によってその時が始まり、捕縛され、弟子たちと引き離されていくイエス。どこまでもついていくといいながら、ともに歩めない弟子たち。裁判の席でほとんど口を開くことなく十字架の道を受け入れ、孤独に耐えられる姿。十字架につけよ!と叫んでしまう人々。手を洗うピラト。つばを吐きかけ、暴言を浴びせかけ、茨の冠を作り額の肉に食い込ませる兵士たち。十字架を背負い歩き出すイエス。その重さに何度も倒れても誰も助けるものなく孤独の中を歩くイエス。その十字架を無理に背負わされてしまったクレネ人のシモン。ゴルゴタの丘で釘で打ち付けられるイエス。同様に十字架刑に処せられる二人の男。にわかに掻き曇る空の下で、嘲り笑う兵士と為政者、指導者たち、自分たちの叫び声が本当に十字架刑になったことを見つめる群集。遠くでその成り行きを見つめる弟子たち。おそらく十字架の下で刑の執行をやめるように泣き叫んでいたであろう、女性の弟子たちと母マリア。「主よ、どうしてお見捨てになったのですか!」と叫ぶイエス。そしてすべてが成し遂げられた。イエスはまったくの孤独の中に死んでいった。
瞬きの詩人が、この場面の一人ひとりの中にわたしがいる、と告白したように、いろんなところにわたしがいる。わたしの中の孤独な心をすべて十字架を背負い歩くイエスに投げつけ、押し付け、わたしはそうではないとうそぶき、心の中から沸き起こってくる逆の思いに手で耳をふさぎ、イエスの苦しみを薄笑いさえ浮かべながら見ているわたしがそこにある。
イエスの十字架の重さは、実はそれら多くの人の孤独に耐えられない心の重さではなかったのか?多くの人、というと表現が薄まってしまう。それはあなたの孤独ではなかったか?わたし自身の孤独ではなかったか?……?それらを一身に受けて歩まれた十字架への道。あの死は、あの刑は、実はわたしに対して執行されたものではなかったか?
今週は、少し携帯を少なくしてみないか?メールも控えてみないか?できれば金曜日くらい仕事以外には携帯やメールをやめて、イエスの孤独を追体験してみないか?断食もいいだろう。でも普段何気なく、自分の心を満たすためにやっている人とのつながりを断ち切り過ごす受苦日というのはどうだろう。
孤独に耐える中で、アルコールに溺れてしまったあなた。大切な学びの中で、友人の思いがけない死に出会い、心に大きな傷を受けてしまったあなた。自分に対して罪を犯し、その罪が自分自身で赦せないでいるあなた。日々の生活に流れ、すっかり元気を失ってしまったあなた。とりあえず誰かとつながっていることで、わたしは一人じゃないと思い込んでいるあなた。イエスはそんなあなたの心の奥底に隠している孤独を知っておられる。そして十字架に背負い、あなたのために歩いておられる。あなたに代わって釘の痛みに耐え、十字架についておられる。
孤独の中で苦しむとき、それはイエスと出会うチャンス。今の苦しみを受け入れ、自分の姿を受け入れ、わたしのもとに来なさいとイエスは招いておられる。傷ついたその手でやさしく抱きしめてくださる。
わたしの大切な友人たちへ。あなたが今のところから、それぞれの課題を乗り越えて帰ってくるのをわたしは待っている。祈っている。 そして、わたし自身も。