司祭 クレメント 大岡 創
顕現後第1主日(主イエス洗礼の日)に続いて読まれるこの箇所(ヨハネによる福音書1:29−41)では洗礼者ヨハネが自分の方へ歩いて来られるイエスさまを「この方こそ神の小羊」と証しします。また、弟子たちとともに「私たちはメシアに出会った」とも記されています。
この神の小羊とはヨハネによって言われた言葉ですが、イエス・キリストのあり方にふさわしいものとされています。いうまでもなく小羊とは、その温好さや純朴さのゆえにいけにえと好んでされました。それは苦難の僕の姿とも重なり合うイメージを持ち合わせているところからキリストの栄光を表わす言葉として用いられてきたようです。
神さまの目から見れば私たちは小さな存在としての「いのち」が与えられています。また、その人にしかできないタラントや役割が与えられることによって生かされています。考えてみ見れば当たり前のことですが、時間に流されて自分の役割が何なのか、分からなくなることがあります。一生懸命にエネルギーを費やしていることに「目的意識」が伴っているかどうか曖昧になることもあるかも知れません。ひとり一人に与えられた「生かされている意味」や「用いられていることの意義」をきちんと受けとめるためにも今日の福音書は私たちに伝えようとしています。しかも、神さまの方から私たちを選んでくださっているということへのチャレンジをわたしたちが受けているのだと・・・・。
わたしたちはこれに対して「何かできることはないか」と懸命に考え、すぐに行動を起こすためにエネルギーを使おうとしがちです。イエスさまがわたしたちのために何を願われたのか、何を祈られたのかを聞き取るためのトレーニングが欠けていないでしょうか。それは「じっとすることの不自然さ、不都合さ、不具合さや違和感」のようなものです。イエスさまは私たちのそのような罪をも取り除こうとなさいました。
私たちの身代わりとなって罪を背負うだけでなく、取り除いてくださるためにご自分の命を私たちのために差し出してくださいました。
私たちは人との力関係、評判や社会的な肩書きといった目に見えるものに評価を置きがちです。神の小羊としてのイエスさまの生き方はこの世的にはマイナスの評価しか出来ないかも知れません。でも神さまの目から見れば、思いをはるかに越えて適えてくださる偉大な力にいつも包まれている、それがイエスさまの生き方であり私たちのあり方ではないでしょうか。
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」そのような思いをもって人々に呼び掛けた洗礼者ヨハネは謙遜さだけに留まることではなく、神さまの御手の中にある私たちひとり一人の歩みに必ず与えられた意味があることを示してくれています。