2005年1月9日  顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 (A年)

 

司祭 ヨシュア 文屋善明

適う者【イザヤ41:1−9】

1.主イエス洗礼の日
顕現後第1主日は主イエス洗礼の日でもある。主イエスが公に世に現れなさった時の最初の出来事がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたということによる。本日の福音書ではその時の状況が描かれている。ここで重要なことは、主イエスが洗礼を受けられたとき、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という神の言葉があったということである。「心に適う者」という意味は「ずっとわたしと一緒にいて欲しい」「一緒にいるだけで楽しい」「一緒にいることがわたしの喜びである」「あなたのためにわたしは最善のことをする」という関係を示す。

2.イザヤ書42:1
本日の旧約聖書ではイザヤ書42章が読まれた。1節に「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」という言葉がある。この「喜び迎える者」という言葉が「心に適う者」という言葉の出典である。主イエスが神の子であり、神の心に適う者であったということを、福音書は語る。基本的にはすべての福音書はそのことを語るために書かれたと言っても過言ではない。神は彼の上に神の霊を注ぎ、主イエスは神のためにすべてを奉げて33年のご生涯を生き抜かれた。しかし、主イエスの生涯は決してこの世でいう幸福な生涯ではなかった。その生涯はまさに苦難に満ちたものであり、最後は残酷な死であった。しかし、主イエスはそのことを決して嘆かず、黙って生きられた。それはまさにイザヤが語る「主の僕」そのものの生き方であった。

3.神の宣言
神はこの様な生き方をする「主の僕」に対して「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」であると宣言なさる。主イエスが洗礼をお受けになったとき、天からこの宣言があった。しかし、この宣言は主イエスにだけ向けられたものではない。それは同時に、主イエスに従って洗礼を受けるすべての人々にもかけられている言葉である。そうでなければ、この言葉は主イエスの洗礼という不可解な出来事の情景描写にすぎなくなる。主イエスの受洗という出来事を、わたしたちの受洗と結びつけて、この言葉は生きてくる。というよりもむしろ、この言葉によって主イエスの受洗とわたしたちの受洗とが結びつけられている。洗礼を受けてキリスト者になるということは、主イエスと共に「神の子」になることであり、また神から「わたしの心に適う者」であるという宣言を受けることでもある。主イエスに従うすべての主の僕たちにとって、たとえ、どの様に苦労に満ちた生涯であったとしても、神からこの言葉を宣言されたならば、それだけで満足である。わたしたちにとってそれ以上の光栄はないし、喜び、誇りはない。この一言によって、すべての苦労は報いられる。使徒パウロは、洗礼についてこのように言う。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ロマ6:3−4)。