司祭 マタイ 西川征士
信仰の原点−クリスマス
一年の一番終わりの主日となりました。一年を顧みると様々な恵みと神様のみ守りを感謝せずにはいられません。齢を重ねると、感謝の対象は、何と言っても健康の恵みが一番です。
世の中は色々な病気で苦しむ人々がいます。若い時、盲人のおばあさん信者と同居に近い生活をしていたので、若い私には、その方が良く訓練され、何不自由なく生活されているように思えたので、眼が見えないくらい大したことではないようにさえ思えていました。しかし、眼が見えないだけで、どんなに辛いものであるか、後々知らされて行きました。
イエス様も多くの盲人を癒された話が聖書に書かれています。又、見えないのに「見えると言い張るところに罪がある」とユダヤ教のお偉いさん達を非難されたことも書いてあります。肉体的な意味での盲人の苦しみとは別に、心の目が見えない盲人こそ「罪人」とされている点で、私達の心も痛く突かれます。
イエス様の復活を知らされた弟子のトマスは、その釘跡を触るまで信じない と疑いましたが、実際にイエス様に出会い、やっと信じた時、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ20:19)とイエス様は言われました。いずれにしても、見えるのと見えないのとでは大違いです。
私達の信仰においても、「神様が見えないこと」が、一番大きな障害となっていることは事実です。証拠を見なければ信じない、というのが人間の常だからです。残念ながら、神は「見えない」お方であることが神の決定的な特性であります。神は「invisible
God」(見えない神)なのです。福音記者ヨハネが言うように、「言は神であった。」(ヨハネ1:1)とは、逆に読めば「神は言であった。」ということで、本来、神は「語りかける神」と言うことになります。「言」である神は見えないのは当然です。「いまだかつて神を見たものはいない。」(ヨハネ1:18)とは、そういう意味からでしょう。神は私たちにとっては「聞く」対象にしか過ぎません。
神がイスラエル民族に語りかけられ、殊に多くの預言者を遣わしても、彼らは仲々「聞く」ことが出来ませんでした。この世で無神論者が多く、又、私達がもう一つしっかりした信仰を抱くことが困難なのも、神は「invisible
God」(見えない神)であるということに由来していると言っても良いかもしれません。
ところが感謝すべきかな、「神は肉となって、私達の間に宿られた。」〈ヨハネ1:14〉のです。つまり、「言」なる神が肉体となり、イエス・キリスト様として「visible
God」(見える神)になってくださったというのです。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された。」〈ヨハネ1:18〉とある通りです。神御自身が、「聞く」ことの出来ない人間のために、恵みの道を開き、キリストとなり、卑しい人間の形をとって、私達の前に「visible
God」(見える神)になって下さいました。このことによって、私達が本当に神を見、神と交わりを持つことが許されたのです。それが主の御降誕であります。何と大きな恵みでしょうか。
確かに、昇天後のキリストは再び「invisible God」(見えない神)=聖霊なる神に戻られたのではないかとも思われるかも知れませんが、私達はいつでも「聖書」を通して「visible
God」に出会うことの出来る道が備えられています。
かつて、ある新聞記者のインタビューを受けた時、「あなたにとって人生と信仰の課題は何ですか。」という質問に対し、私は「世の中の見えないものと見えない神の世界が、どこまで見えて行くか、の中で生きることです。」と答えたのを思い出します。
キリストの十字架と、復活の恵みは、私達にとって取り除くことの出来ない恵みですが、主の御降誕は私達にとって、本当に信仰の原点ではないでしょうか。そして、感謝の原点ではないでしょうか。
終戦後、一人の医学生が突然の病で失明、自殺さえ考えたそうです。或る日牧師が彼を聖書の言葉を携え励ましに行ったが、彼は反発。しかし、母の愛に満ちた支えにもより、長い間の苦悩の後、彼自身が牧師になって行ったとの話を新聞で読み、又、一つの光が与えられたような気持ちになりました。