司祭 ヨハネ 黒田 裕
あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる【ルカ23:35−43】
高校生の頃「物理」がもっとも苦手でした。担当は生徒たちの間でも有名なS先生。独特の雰囲気を持つ人でしたが、彼が有名である最も大きい理由はその頭にありました。いつも整髪料でこてこてで、ピカピカ黒光を放っていたのです。しかも教室の前半分ほどにまで、その整髪料の匂いが届いていたのでした。ひどい近視である私は最前列に座っていたため、初めての授業の日「噂通りの匂いだなあ…」と本当に驚いたのでした。
毎回その頭が気になってしょうがない、というのを言い訳にしてはいけませんが、苦手意識が強いせいか、この授業には集中できませんでした。先生の話しを聞いていてもいっこうに分からないのです。後から気づいたのですが、先生の授業には教科書の他に手作りの「サブノート」があって、教科書よりも、こちらを主にして授業がなされていたのです。どうりで分からないわけです。先生が「はい、36ページ開いて!」と言うとき、サブノートのページなのに私は教科書の36ページだと思っていて、そこを見ていたのです。それに気づいたのは1学期も終わりの頃で、もう遅く、この学期はしっかり赤点をいただき、ついには「保護者召喚」の憂き目にあったのでした(もっとも、激怒した母は「自分のしたことは自分で責任をとれ!」と叱りつけ、私を一人で「召喚」の場に行かせたのですが)。
というわけで、物理について語る資格は全くないのですが、少なくとも高校までの物理がそうであるように、私たちは時間を、等間隔に刻まれた定規の目盛りの延長のように考えています。あるいは、そんなにややこしく考えなくてもアナログ時計の目盛りもまた等間隔に刻まれており、そのようなイメージで時間を考えています。ところで、中学生の頃、家庭科の教科書には「ライフサイクル」なるものの図が載っていました。数直線(?)のような線に年齢の目盛りがあり平均的な人の一生がそこに書かれていたのです。それによれば20代前半で学校時代が終わり、その後に就職、20代半ばから後半に結婚して家庭を持ち子供が生まれる。そして就業期も60代になると終わり、やがて70歳で人生を終える―。当時私はこれを見たとき、人の一生がひどくつまらないものに見えてしまい、こんなもの見なければ良かったと思ったものでした。これらの特徴を2つあげるならば、私たちにとって時間とは、一直線に、しかも絶対に後戻りせず進んでいくもので、しかも時間の経過は等間隔で均質なものということになります。しかし、これがすべてでしょうか。私たちの実感からすると必ずしもそうではありません。楽しい時間はあっという間に過ぎるし、つらい時間はやけに長く感じられます。自転車で転んで頭を打ったときも、意外にその瞬間はスローモーションで記憶をしていたりもします。時間には、先ほど挙げた量的な時間のほかに質的な時間があるのではないでしょうか。そして大ざっぱに言えば、聖書に書かれている時間はどちらかといえば質的な時間といえるように思えます。
さて、今回の福音書の最後にイエスさまは「…あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と言われました。しかし、この「楽園にいる」は原典では「未来形」が使われています。にもかかわらず、ここでは現在形のように訳されています。というのは次のような事情によります。私たちが英語で習った「未来形」というと、普通「〜だろう」と訳します。しかし、標準的な教科書によれば新約ギリシャ語の未来形は、通常の(人間の)未来形とは異なり、神さまの約束であり必ず実現するものであるから現在形と同様に「〜である」「〜する」と訳す、と解説されています。そこで私たちの手にしている新共同訳聖書が「〜にいる」としているのも理由のないことではありません。しかし、それでも私自身は、そこが未来形であることを示すために、やはり「〜だろう」あるいは「〜することになる」と訳すほうがいいのではないかと思っています。そして実際、昨年出された岩波版(新約聖書翻訳委員会訳)は「…あなたは今日〔すでに〕、私と共に楽園にいるだろう」と訳しています。しかし、それでもなお、通常の文章としては「今日」「すでに」と「〜だろう」が同時に存在している文というのは私たちにとっては奇妙です。これは目盛りのような時間感覚では、とうてい表しえません。これは今現在のことなのか、あるいは、完了か過去のことなのか、それとも未来のことなのか…。しいて言うならば、ここには、いま現在に未来のことが突入し、未来は現在を捕らえ過去と完了とを巻き込んでいる、とでもいえるでしょうか。言い尽くせませんが…。
ところで、このイエスさまの言葉を引き出した男の言葉は「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」(42節)でした。しかし、この要求をはるかに越えることがらをイエスさまがもたらしたことに心を留めたいのです。イエスさまは、彼の「仮定」をはるかに越えた"現在"を、彼の要求「あなたの王国」に対し「楽園」を、「思い出してほしい」をはるかに越えた「私と共にいる」という"現実"を、もたらしたのでした。そして、その瞬間、この男の自己否定的な生は、そして、彼の過去と現在と未来とは、したがってまるごとの彼は、イエスさまによってまるごと受け容れられたのでした。それは、この男にとって死すらも積極的な意味を持つものになった出来事でありました。