2004年10月31日  聖霊降臨後第22主日 (C年)


司祭 バルナバ 小林 聡

「救い:人間回復」【ルカ10:1−10】

 お金のために、どれだけの人をだまし、どれほどの人間関係を壊し、どれだけ心を使わないで生きてきたのだろうか。と、ザアカイは自分を振り返ってみたのかもしれない。収税主任で金持ちのザアカイ。ザアカイはイエスに興味を持った。なぜだろうか。その問いの答えはしばらく後にザアカイが気づくことになる。ザアカイはおもむろに走り出す。背が低いために民衆にさえぎられ、イエスが見えない。でも一目みたい。低いいちじくぐわの木によじ登ることさえ、気にしない。収税主任であり、金持ちという世間体も気にならない。イエスはそんなことに関心を持っているとは思えないから。
 ザアカイは何を見たのだろう。イエス。人の痛みや苦しみを心底自分の痛みとされる方。人の喜びを心底自分の喜びとされる方。ザアカイの目に飛び込んできたのは、イエスのまなざしだった。低い木に大人気なくよじ登っているザアカイを、尊敬する人物を見るかのように見上げるイエスがそこに見えた。「ザアカイ、はやくおりてきなさい。きょうはあなたの家に泊まることにする」。このイエスの言葉が、どれほどザアカイの心に染み込んだか。いそいで木からおりるザアカイがよころこびに満ちている姿が思い浮かぶ。うれしい、とにかくうれしい。今までどのくらい冷ややかな目を向けられ、疑いの目を向けられ、軽蔑の言葉を聞いてきただろうか。イエスはザアカイが今まで聞いてきた蔑みの言葉を浴びせられる。「この人は『道をふみはずした者』のところに宿をとった」。
 ザアカイは出会った。人を救われる方に。救いの意味を明らかにされる方に。ザアカイはありのままを受け入れられた。人との関係が崩壊し、心を使わず、人をおとしいれていた、こんな自分自身をありのまま受け入れてくださる方がいる。その方は、自分のことを人ととして見、人として打ちのめされ、打ちのめしてきた一人の人間として、ありのままを受け入れてくださった。ザアカイは人間として生きることを忘れていた。人間として関わること、人間として心を使うことを忘れていた。イエスとの出会いは、ザアカイを人間にした。人間に戻した。ザアカイが受けてきた人々からの反応を自分自身も引き受けられたイエスは言われる。「人の子は、打ちのめされたものをさがし、救うために来たのである。」