2004年10月17日  聖霊降臨後第20主日 (C年)


司祭 サムエル 門脇光禅

絶やさず祈る【ルカによる福音書18:1−8】

 この譬え話を初めて聞くと「そんなことありえない」とびっくりしそうな話ですが当時は大いにありえる話であったみたいです。実際しばしば起こっていたようです。
 さて2人の登場人物がいます。まずは、裁判官の登場です。当時、ユダヤ人同士の民事的なもめごとが起こると大抵は長老のところに持ち込まれそこで解決していたようですからこの裁判官はユダヤ人ではなかったにみたいです。また長老のところで解決できない問題を調停するには通常3人の裁判官がたてられます。原告からと被告から1人づつ、最後の1人は両者とは別個に指名されると決められていました。その際の裁判官は王ヘロデかローマ政府によって任命された判事でありました。ところがそれがまた悪いのが多かったようです。原告は賄賂なんかわたし放題で、判事の方も正義や公儀でさえ金のためならねじまげたようです。民衆も半ばあきらめてそんなものだと諦めていたのです。
 次の登場人物は夫を失った女性です。彼女はここでは「弱い者の象徴」として表されています。この人にはお金もなかったので裁判官に裁定を自分に有利にしむけることは不可能でした。でも彼女には武器がありました。それは彼女の執拗さです。結局彼女の頑固さが勝利したわけです。
 さて、この譬えでイエスさまは何を言いたかったのでしょうか。もちろんこの不正な裁判官を神さまになぞらえてはいけません。イエスさまは「この不正かつ貪欲な判事もついには根負けして夫を失った女性に有利な判決を出したというなら愛とあわれみに富んだ神さまはその子たちが必要としているものを豊かに下さるに違いない。」と言いたかったのでしょう。しかしだからといって親というものはその子どもが欲しがるものすべてを与えるということはありません。親はときには子どもの要求するものを与えないこともあります。というのは子どもの要求するものが害あるものである場合もあるからです。人間は1年後いや明日のことすら自分がどうなっているかわからものです。人は去り行く時間を認識するのみです。神さまだけがその人間の与えられている時間全体を見ておられるのです。したがって何がどの時点でわれわれのためになるか本当に必要なのかをご存知なのは神さまだけなのです。「気を落とさずに絶えず祈れ」とイエスさまが言われたのはそのためなのです。とすれば、ゆるぎなき信仰で絶えることのない祈りを続けるにはどうしたらいいのでしょう。それはその祈りと願いが自分のおもいだけでなく神さまのみ旨に叶うことを含んでいなければならないと思うのです。 主に感謝します。