司祭 セオドラ 池本則子
僕として主に仕えるからし種一粒ほどの信仰【ルカによる福音書17:5〜10】
私たちは「信仰が薄い」「信仰が強い」「まだまだ信仰が足りない」などと言ったりします。信仰とは単純に量で測ることができるものなのでしょうか。
使徒たちはイエス様に「信仰を増してください」と頼みます。この願いの背景には無限に人を赦すように、と言われたイエス様の言葉にあるようです。今の信仰のままでは人を赦すことが難しいから、できるように信仰を増して欲しい、と思ったのでしょう。この願いに対してイエス様は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われます。からし種とはどんな種よりも小さい種、しかし成長するとどの野菜の木よりも大きくなると言われています。イエス様はからし種一粒ほどの信仰を持っていればそれで十分で、そこに神様の大きな力が働く、と言われます。信仰とは量ではなく、本物の信仰を持っているか、持っていないか、にあるようです。私たちの願いは「信仰を増してください」ではなく、「信仰をお与えください」なのかもしれません。
主人に仕えている僕は主人の命令に従います。主人から「食事の用意をし、給仕をしてくれ」と命じられて、それを果たしたからといって、主人から感謝されるわけではありません。主人との契約として当然の務めをしただけです。私たちと神様の関係も同じです。目に見える契約のしるしとして洗礼を受けた私たちは、主人であるイエス様の命令に従う僕です。しかし、現実には私たちは主人であるイエス様の教えに反することをし、望まれていることをなかなかできないでいます。それほど弱い人間である私たちであるからこそ、常に懺悔し、神様から赦しを請い、助けてもらわなければなりません。私たちは主の僕としてただ神様を信じ、神様により頼み、神様にすべてを委ね、イエス様に従うことによってのみ僕の務めを果たすことができるのではないでしょうか。
信仰とは人間の力で獲得できるものではなく、神様の救い、恵みに気づいた時に神様によって与えられるものです。自分の信仰が弱いとか足りないと考えることは、信仰が自分の力で獲得できると考えていることであり、それは本物の信仰ではないでしょう。イエス様は私たちの救いのためにその身を献げられたほどこの世を愛し、すべての人々が助け合いながら平和に生きていくことができるようにといつも心を砕いておられます。そのために私たちは神様から一人一人にふさわしい賜物が主の命令として与えられ、用いてくださっています。私たちはからし種一粒ほどの信仰をもって、主の命令に耳を傾け、ただ主の力を信じて主の僕としての務めを果たしていきたいと思います。