2004年8月22日  聖霊降臨後第12主日 (C年)


司祭 エッサイ 矢萩新一

 イエスは十字架の待ち受けるエルサレムに向う道すがら、人々にいろんなことを教え、語りながら歩きました。ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」とイエスに質問すると、その人だけではなく皆に向かって「狭い戸口から入るように努めなさい。」と答えられました。救われる人が「多いのでしょうか」ではなく「少ないのでしょうか」と少し控えめな質問ですね。その心の内には、「救われる者は多いよ」という答えを期待し、自分もその中に含まれているという安心感を得たいという思いが見えます。その人の関心は、自分自身だけに向けられています。その期待とは裏腹にイエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われます。狭い戸口に対するものは、広い戸口で、誰にでも入り易い親切な戸口です。その広い戸口ではなくではなく、あえて「狭い戸口」と言われたのは当時の人々が思い描いていた救いの道が、あまりにも安易過ぎたからではないでしょうか。
 狭い戸口とはイエスご自身の事であり、誰にでも開かれている救いの道です。この広いはずの戸口を狭めているのは、私たち自身である事をイエスは指摘します。「狭い戸口から入るように努めなさい」と生き方の転換をイエスは促しています。「努めなさい」という言葉は、勝利を目指して身体を鍛える運動選手の努力を語源としています。他者を打ち負かす為というよりは、自分自身に克つ為の鍛錬というニュアンスである。メダルを取る取らない関係なく、オリンピック選手が私達に与える感動は、そのような鍛錬が垣間見られるからではないでしょうか。人間はどうしても楽な方へ楽な方へと流されてしまいます。できるだけ余計な努力をしたくないと思ってしまいます。
 パウロは「おおよそ(主の)鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、儀という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ人の手紙12:11)とはっきり言います。
 アブラハムの子孫だから、律法を守っているからという理由で救いが保障され、神の国の宴会の席に着けるというわけではないのです。いくら「一緒に食事をしましたし、教えを受けました」と言っても、「不義を行う者ども」と外に投げ出されてしまいます。これは、聖餐の食卓を囲み、聖書のみ言葉を聞く私達にも無関係だとは思えません。先に宴会の席に着いている先祖や預言者、東西南北から来た異邦人達は、それなりの鍛錬をして狭い戸口から入った人々、めんどうくさい事から逃げずにあえて遠回りをした人々であります。「後だと思われる人が先に、先だと思われる人が後に」なる所が神の国=神様の支配が及ぶ世界です。「不義を行う」とは、神様の御心に反して隣人を大切にしない行為です。
 広くもあり狭くもあるイエスという戸口へと向わせるのは、「神様を愛し、隣人を自分のように愛する」心であります。他者を蹴落す生き方よりも、他者を自分のように大切にする生き方のほうがしんどいかもしれません。しかし、イエスの言われる「狭い戸口」へと向う為のおもしろくない事、苦しい事の中にこそ真実があるように思います。だからといって、しんどいことに向わなければという消極的な思いになるのではなく、先に見える喜びを信じて、しんどい事って「楽しいよね」「嬉しいよね」と思いながら歩めたら良いですね。実際、誰でも入れる広い戸口よりも、鍛錬を必用とする狭い戸口から入った方が喜びは大きいのではないでしょうか。
 誰が一番で誰が最後なのか、誰が救われて誰が最後なのかと気をもむ必用はありません。むしろ「一緒にイエスという戸口から入ろうよ」という気持ちに至る事が大切にされれば良いなぁと思います。オリンピックを見すぎて寝不足の方も多いと思います。発祥の地アテネでのオリンピックが、メダルの数を競うのではなく、肌の色・目の色・髪の色の違う人が一緒になって汗を流せる喜びを噛み締める大会、平和を願う象徴であって欲しいと願います。