2004年7月25日  聖霊降臨後第8主日 (C年)


司祭 ヨシュア 文屋善明

主の祈り【ルカ11:1−13】

1. ルカによる「主の祈り」
 本日の福音書には、ルカによる「主の祈り」が含まれている。福音書には「主の祈り」が2箇所出てくる。もう1箇所はマタイによる福音書第6章9-13節である。どちらかというと現在わたしたちが用いている主の祈りは、マタイによる福音書に近い。2っの主の祈りをめぐって、いろいろなことが議論されているが、それは専門家に任せて、ここではルカの「主の祈り」を中心にして祈りということについて学びたい。
 ルカの福音書の一つの特徴は、「主イエスの祈り」である。既に学んできたように、ルカによると主イエスは洗礼を受けられたときも祈っておられたし(3:21)、 12弟子を選ばれた時も祈っておられる。(6:12) また、ペテロがキリストを告白したときも、主イエスは祈っておられるし(9:18)、主イエスはペテロが信仰を失わないように「祈った」(22:31)とも語っておられる。ルカは一貫して主イエスを「祈る人」として描いている。
 ルカの主の祈りも、【イエスはある所で祈っておられた】という言葉で始まる。弟子たちは主イエスの「祈る姿」を見て、「わたしたちにも祈りを教えて下さい」と頼むのである。ただ、ここで注目すべきことは、「ヨハネが弟子たちに教えたように」という言葉が加えられている点である。この言葉によって、ルカによる「主の祈り」が単に個人的な「祈りの模範」というようなことではなく、当時の主イエスの集団以外の祈りの状況の中での主イエスの集団での「祈り」という意味が重要になってくる。

2. 主イエスの集団以外での祈り
 ユダヤ教には、定型化された18の祈祷文があった。主の祈りとそれらの祈りとを比較するとそれらが非常に似ていることがわかる、らしい。おそらく、ヨハネの集団にもそれに似たような定形化された祈りがあったと思われる。ところが、主イエスはいつも「ひとりで祈る」(9:18,マタイ6:6)が弟子たちに祈ることをあまり教えなかったようである。というよりも、祈りを定式化することにあまり熱心でなかったものと思われる。推測するに、弟子たちにとって、主イエスがひとりで祈っておられる姿は、非常に魅力的なものであったに違いない。それで、自分たちも主イエスと同じように祈りたいという願いがあったものと思われる。
 祈りの姿の魅力ということについて、札幌農学校の教師として招かれたクラーク博士のエピソードが伝えられている。クラーク博士は僅か10ヶ月ほどした在日しなかったが、博士の影響を受けて内村鑑三、新渡戸稲造など多くの学生がキリスト教徒になり、その影響は今でも残っている。「少年よ、大志を抱け」という名言で有名である。クラーク博士はよく祈る人であった。外国の地になって、彼はいつもひとりで部屋で祈っていたといわれる。博士の祈りの姿が多くの学生たちに感化を残した。彼は宣教師ではなかったが、宣教師以上の働きをした。

3. キリスト教の祈りの特徴
 それでは主イエスが教えられた祈りの特徴は何か。特に、ルカが指摘する特徴は何か。はっきり言って、「御名が崇められますように」以下終わりまでの祈りの言葉は、主イエスの集団以外にも通用する項目である。また、わたしたちが普通用いている「天におられるわたしたちの父よ、」という言葉もそれ程特徴的ではない。この言葉は、マタイによる「主の祈り」から取られた言葉であるが、この表現もユダヤ教の祈りに見られるものである。
 ところが、ルカは「父よ」という呼びかけの言葉を単独で用いている。これは祈りの言葉としては珍しい。普通は、「父よ」という言葉に祈祷文にふさわしい形容詞が付加されるものである。「父よ」と単独で用いられると何か飾り気がなく、ぶっきらぼうな感じがする。もっとはっきり言うと、肉親の父親と区別ができなくなる。実は、この点がここで注目すべきことである。もっとも、現実の父親に対して「父よ」と呼びかける筈はないので、「父ちゃん」とか「親父」とか親しみを込めてた表現であろう。ユダヤ人にとって、神に向かってこう呼びかけることは不敬であると思われていた。
 ユダヤ教の聖典といわれるタルムッドでこういう教えがある。「子どもが小麦の味を知るようになったら、(すなわち乳離れしたら)、アバとイマと言うことを学ぶ」。つまり、この言葉は乳離れした子どもが最初に発する「おとうちゃん」「おかあちゃん」という言葉である。
 エレミアスという新約学者は、主イエスの教えの中で、当時の宗教思想と比較してただ一つ特徴的なものがあるとしたら、それは神を「アバ」と呼んだことだとする。そして、ここに主イエスの信仰の全ての秘密があり、ここから全ての言葉と教えが展開されるという。主イエスの生き方は神を「アバ」と呼ぶことに基づいている。そこに、主イエスの「神から派遣された者」という意識の土台がある。主イエスが弟子たちに、つまりわたしたちに「アバ」と呼ぶことを教えられたということは、神と主イエスとの特別な関係(交わり)に、わたしたちを招いておられるということであり、またわたしたちが「アバ」と祈ることによって、わたしたち自身がこの交わりの中に入る。