2004年7月18日  聖霊降臨後第7主日 (C年)



執事 マーク シュタール

 今日の福音書(ルカ10:38−42)のメッセージは、とてもはっきりしています。それは、イエスに従うもっとも大切な方法は、イエス様とその教えに注意を払うことです。実生活のこまごましたことを心配することは大事ではない。実生活は、必要なことです。しかし、イエス様に従う、聖書を通してイエス様の御声を聞き、語りかけること、祈り、崇めることが優先されるべきことです。だから、先週の聖書の善きサマリヤ人の話は、とても大切なのです。
 先週の福音書では、イエスは、質問に対して質問を返しました。その目的は、質問を投げかけた人に考えさせるためでした。イエスは、決まりきった答えは欲しくなかったのです。イエスの時代になるころには、申命記や民数記の規則がますます増えました。細かい律法は、口頭で存在していたけれど、5世紀にTalmudという本に書き集められました。そして、その律法についての注釈Midrashという本は、2世紀ごろに書かれました。イエスの時代のユダヤのエリートは、細かい法律にうるさく、いつも白黒をはっきりさせたがっていました。中間やグレーゾーンは絶対許さなかった。ここに出てくるイエスに質問する弁護士は、 典型的なエリートの人です。彼は、イエスから定義が欲しかったのです? 「では、私の隣人とは誰ですか?」と言いましたね。彼は、正確な線引きが欲しかったのです。そうすれば、誰を愛し、誰なら愛さなくていいか、白黒はっきりわかるからです。
 でも、イエスは、期待されたレベルでは答えなかった。「隣人」の定義を説明しなかった。代わりに、イエスは苦しむ人の隣人になるとは、どういうことかを説明しました。この譬え話で、隣人になるとは、不便さやリスクを負うこと、そして、人種差別や異教徒に対する偏見を克服することだと教えています。 他のシチュエーションでは、違う意味があるかも知れません。だからこそ、これが本当にメインポイントです。私達が具体的にどのようなケースでどのように行動するかを前もって決断することは出来ません。私達は、人が必要としていることに敏感で心を開いてなければならない。それと、同時に聖霊の導きに対しても同じように、敏感で心を開いてなければならないのです。