2004年6月20日  聖霊降臨後第3主日 (C年)


司祭 クレメント 大岡 創

 本日の福音書は「ペトロの信仰告白」と呼ばれている箇所です(ルカによる福音書9:18−24)。イエスの時代「救い主待望論」が盛んに交わされていました。政治的な権力から解放してくれる人なら誰でもがヒーローになれたのかもしれません。そんな中でイエスは本来の使命が伝わっていないことを危惧し始めます。ペトロでさえも誤解していたようです。イエスは人々の期待を越える答えをペトロに望んでおられたとも言えます。
 人々の期待との隔たりに悩み、納得のいかないまま、恐る恐るイエスについていったという姿はどこかわたしたちと似ていないでしょうか。
 神さまの思いに沿って生きようとするとは様々な困難に直面し、返ってしんどくなる生き方ではないか割に合わない、と・・そんな声が聞こえてきそうです。でも、わたしたちは多かれ少なかれ神さまに従おうとすることによって時にしんどい立場に立たされたり、妥協的になることで周りから受け入れられほっとする。そんなことの繰り返しではないかと思います。
 イエスさまが現代にいたとしたらきっと社会のしがらみに目をつぶることなくぶつかり、排除されたでしょう。そのとき「あなたはイエスさまのことをどう思うのですか」と言われているのです。
 他人の評判や噂は興味本位で誰もの気をひきつけやすいものです。
「自分のことばで自分の思いを相手に伝えること」=自分はどう思うのか
わたしたちは、そのことにもっとお互いに心を注いでいいのではないでしょうか。自分が感じていることは本人にしか分かりません。以心伝心、暗黙の了解、あうんの呼吸とか「言わなくてもわかっているでしょ」とかいわれてもやはりいわなきゃ伝わらないことは多いのです。
 苦手なことから逃げたり、あきらめたりせず、時に勇気をもってその思いを伝えようとするときそこに伝え手と聞き手の信頼関係が生まれてくると信じたいのです。
 イエスさまは自分中心の生き方を優先するのでなく、相手に耳を傾け、力ずくで相手を納得させることがないようにと命じられています。
 そのことにもっと謙虚に、自由になりたいと思います。そして各々の十字架は自分が一番よく知っているはずです。
 また、自分にしか負えないものであり、人に代わってもらうものでもないのですから。