司祭 テモテ 宮嶋 眞
ご自身の死後、3日目(復活日・イースター)によみがえられた主イエス・キリストは、その後、何度も、弟子たちの前に姿を現されたという。そして復活日から40日後のこの木曜日に天にあげられたと聖書は告げています。(使徒言行録1章3節)
「こう話し終わられると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(同1章9節)
「見えない」というのは不安なことです。運転をしていて、霧で前方が見えないというような簡単なことでも不安感は生まれます。困難に出会ったとき、先行き不透明で見えないといった経験は多くの方にあるでしょう。そんなときはもちろんいろいろな情報も集めて考えますが、結局「見えない」とぼやきつつ、判断を下したり、行動にうつすこともあります。
では逆に「見える」ことはどうでしょうか。「見える」ことは、現在のこと、そして過ぎ去った過去のことです。それは明らかになったという意味では良いのですが、すでにそうなっているのですから、それを変えるというわけにはいかないことです。
変えられるのは、これからのことです。「見えない」ゴールに向かって、どう対処するのか、どう生きていくのか、自分自身の決断が促されているのです。ですから「見えない」というのは、マイナスの要素なのではなく、自分に与えられている可能性だといわねばなりません。主イエスが弟子たちの前から消えてしまわれたというのは、「あなたたちの自立的な生き方を求めます。」という招きの言葉だったように思います。それこそが、雲に隠れ、見えなくなった理由ではないでしょうか。さらに、主イエスは弟子たちを一人一人冷たく残されたのではありません。その10日後、主イエスを見失うことで不安に思う弟子たちのために「聖霊」という助け主(弁護者)を送るとの約束を残していきました。「助け主も与えます。しかし、あなたの力でたちなさい。」そのことに思いをめぐらせるのがこの10日間の課題です。
蛇足ですが、主イエスの場合には「昇天」ですが、人間が死んだ時には「召天」という言葉を用いるのが習慣です。私たちは、常に神さまによって、自分らしく生きることに招かれている存在だと思います。