2004年4月4日  復活前主日 (C年)


司祭 サムエル 小林宏治

「主イエスの十字架への受難の道」【ルカによる福音書23:1−49】

 イエスは、ゴルゴダの丘で、十字架刑に処せられ、亡くなられました。イエスの死は、犯罪者と同じ死刑によってもたらされました。このイエスの死は、私たちに何を語るのでしょうか。
 イエスの死はただの死ではなかったのです。むしろ、死なねばならなかったのです。イエスは、ある人々によって、その存在を許されなくなりました。ユダヤ人の支配階級の人々に憎まれたのです。イエスの教えや、働きが、彼らの生き方を危ういものにしました。イエスに大勢の人々が従うのを見て、自分たちの生き方を守らねばならないと考えたのでした。彼らには、彼らの正しさがありました。その正しさのゆえに、イエスに死を与えることを求めました。
 その圧力はピラトにも及びました。初め、ピラトは、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。次には、「この男は死刑に当るようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と言いました。最後には、ピラトはイエスを釈放しようと思っていましたが、人々が、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びつづけたため、彼らの要求をいれる決定を下しました。人々の要求通りに、イエスを彼らに引渡して、好きなようにさせました。
 イエスは人々の中で、罪が見つからないのに、罪に定められ、犯罪者として、十字架刑にさせられました。人々は自分自身の正しさの要求ゆえに、イエスを死に渡しました。イエスの死には、多くの人の醜い思い(自分の正しさを求める思い)が詰まっていたのです。その醜さは、イエスを死に追いやることで、露わになったのです。イザヤ書の主の僕の苦難と死にあるように、イエスは軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、無視されました。イエスの存在は人々の醜さのはけ口として、死を通して用いられたのです。
 私たちは、イエスの死から、むしろ、神の正しさを知らねばなりません。イエスが打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであったと。イエスの受けた懲らしめによって、私たちの平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒されたと。神の正しさがイエスの死を通して私たちに示されました。それは、かけがえのない神の独り子を死に渡すことで実現しました。神の正しさは、私たちを、その醜さから解き放つ力を持っています。そして、私たちを神の救いに導くという出来事なのです。どんなに醜い私たちでも、神の正しさによって、清められることを示しているのです。