司祭 ペテロ 浜屋憲夫
「先生、」が「主よ、」に変ったことから考えて見る。
本日の福音書に選ばれているルカ版のペテロの召命物語の中では、イエス様がペテロに語りかけられた言葉が二つ、ペテロがイエス様に語った言葉も二つ記されています。最初は先ずイエス様がシモン・ペテロに語られ、ペテロがそれに答える形になっています。次は、ペテロの言葉にイエス様が答えられます。
注目したいのは、ペテロのイエス様への呼びかけ方が最初の方の言葉と後の方の言葉では異なっているということです。最初、ペテロはイエス様に「先生」と呼びかけています。
しかし、後の方ではその呼びかけは、「主よ」という言葉に変っています。物語の流れを見てみますと、福音記者ルカはこの二つの言葉を何となく変えて使ったのではなく、ハッキリと意図的に変えて使っているように思われます。それは、ペテロの語った二つの言葉の間にペテロはとても大きな経験をしているからです。その経験がペテロとイエス様の関係を全く違うものにしてしまい、その結果ペテロのイエス様への呼びかけ方も変わったのです。
ちょっと変な譬えかもしれませんが、教会の中でそれまで同僚とか友人同士という関係だった人の一人が主教さんに選ばれ、着座して教区主教となられたら、それまでとは呼び方が変ることになるのに似ているかもしれません。誰かが主教さんになったら、少なくとも公的な場では違う呼び方になる。それは、主教選挙という大きな出来事によって選ばれた人とその他の人との関係のあり方が変ったからです。今まで、「高地先生」とか、「高地さん」とか、「高地君」とか、「高地」と呼んでいたのが、「高地主教さん」に変ります。主教選挙という大きな出来事を経て、新主教と回りに人々との間に新しい関係が生まれたのです。
ペテロにイエス様に対する呼び方を変えさせた大きな経験とは、イエス様の「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という言葉に従って、(決して喜んでではなく、多分しぶしぶという感じだったと思われるのですが)網を降ろして見た結果、思いもかけない大漁、取れた魚の重さで船が沈みそうになる位の大漁をペテロが経験したということでした。この大漁は、漁師ペテロにとって普通の大漁ではなく、全く特別な出来事、事件であったようです。それは、この大漁を見たペテロが、沢山魚が取れたことを喜ぶどころか、驚き、恐れて、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んでいるからです。ペテロの目は沢山取れた魚よりも、このような出来事を起こされたイエス様その人に向けられているようです。今まで、只の先生だと思っていたその人が、只の先生以上の方である事にペテロはこの大漁の出来事を通して気が付いたのです。
このイエスさまが示された力の中にペテロは神様の力を見ました。(イエス様の中に隠されていた神様が顕わにされたのですから、実に顕現節の朗読にふさわしいですね)今までは、ペテロにとってイエスさまは只の人だったのに、この時からペテロはイエスさまを通して神さまを見るようになったのです。驚天動地の経験だったのでしょう。今まで、人間的常識の世界に住み、その中でイエス様を見ていたペテロが、突然神様の世界、聖なるものの世界にひきずり込まれ、その中でイエス様をみるようになったのです。
禅宗のお坊さんが修行の中で悟る時の経験を、「桶の底が抜けた」ようだと表現するそうです。今まで、「自分が、自分が」という小さな世界にいたのに、突然自分は本当は広大無辺の慈悲の世界に生かされているものであることを悟った時のことをそう表現するのだそうです。
ペテロが、この大漁の経験をして、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んだのは、この出来事を通して圧倒的に聖なる神様の世界を垣間見て、小さな自分が押しつぶされそうになったからだと思われます。沢山の魚を積んだ船が沈みそうになったのは、この大きな経験につぶされそうになっているペテロの姿の象徴かもしれません。
この経験を経て、「先生」は、「主」に変りました。そして、この後ペテロは元の漁師の仕事に戻ることなく、今イエス様に見せて頂いた神様の世界に、イエス様の後を追ってまっしぐらに突き進んでいくことになります。
最後に「先生」から、「主」へと変ったターニングポイント(転換点)を考えてみたいと思います。それは、イエスさまの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という言葉にたいして、最初は「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」とは言ったものの、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ったところにあると思います。
この「しかし、お言葉ですから」が無かったら、あの大漁事件もありませんでした。ペテロがイエス様に神様を見出すことも無かったのです。ペテロはイエス様が自分の船から岸辺に集う群集に語られたのを横で聞いていました。そのイエスさまの言葉がやはりペテロの心に響いていたのだと思います。だから、「しかし、お言葉ですから」という言葉がペテロの口から出たのだと思います。
イエス様の言葉はペテロを動かしましたが、それだけではペテロは神様を見ることは出来ませんでした。イエス様の言葉に従い、沖に漕ぎ出し網を降ろすという行動をした時にペテロは本当に神様の世界を自分の目で見るという経験をしたのです。イエスさまの言葉を只聞くだけでなく、その言葉に従って行動するということの大切さを思わざるを得ません。
また一方では、ペテロが「しかし、お言葉ですから」と返事をしたイエス様は、その時はまだペテロにとっては「先生」であったことを考えますと、行動を起こした人に神様の世界を経験させて下さるのは「主」である神さましか出来ないことだとしても、神様の世界に誘うのは人間にでもできるのだとも思います。「しかし、お言葉ですから」と思ってもらえる説教を死ぬまでに一回でも出来るのだろうかと思ってしまいます。