司祭 ミカエル 藤原健久
使 命
私の気に入らないもの:「自分は無宗教」と気取り、「大体、宗教なるものは云々」と、評論家のごとく「一般論」を語る人。このような人は、決して宗教の救いを得ることはできないだろう。同じく聖書を、「一般的」な歴史・道徳の書物と見る人は、聖書から何の救いも得られないだろう。聖書は世間一般に語られたものではなく、「あなた」に「個人的」に語られたメッセージである。神様は一人一人を見つめ、個別に救いのみ手を延ばしておられるのである。預言者エレミヤはこう語る。「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。』」主の十字架、復活も、「あなた」のため、「私」のため、なされたものだ。
イエス様はナザレで、旧約聖書の故事を用いて、人々に言われた。「あのときは…サレプタのやもめだけが、また、ナアマンだけが救われた。」人々は「一般的な」救いを信じていた。「神様は、みんなを、平等に救ってくださる。」神様は、この地上の全てを造られ、全てを治められる。だから、神様はきっと全ての人を救ってくださる。この信仰は正しい。ただし、その救いのみ業は一人一人違う。神様は一人一人に最も合う形で、救いのみ手を延ばしてくださるのである。このことを理解できないナザレの人々は、自分たちが切り捨てられたように思い、イエスに憎しみを覚えたのである。
"みんな同じ""一人一人違う"この両者があって、私たちは形造られている。「一人一人違うもの」改めて見直してみると意外に多い。まず名前、性格、境遇、「個性」等々。神様との関係でも考えてみたい。神様が一人一人に与えてくださるお恵みのことを、「賜物」と言う。そして、神様が一人一人に与えてくださる道筋:神様によって示されたこれから歩むべき道を、「使命」と呼ぶ。一人一人に、違った使命が与えられている。黙想し、心の耳を傾け、少しでも自らの使命に気付きたい。そして気付いたなら、誠実にその使命を果たしたい。今、世界には、自分の使命が分からない人が多い。それより悪いことには、自分の使命に気付いていながら、目をふさぎゴマ化して、すべきことをせず、してはならないことをする人や共同体、国がある。今、世界は、自らの使命をちゃんと果たそうとする誠実さを、切実に求めている。