2024年3月31日  復活日          主教 ステパノ 高地 敬
 
負けました

 人間を含む霊長類は二足歩行ができるようになって、遠くが見えるようになり、手が使えるようになりました。二足歩行のお陰で方向転換もしやすくなったのではないかと思います。
 あるスポーツの日本代表選手がテレビのインタビュ―を受けていて、「足は何のためにあると思いますか?」とアナウンサーに逆に聞いていました。「さぁー、歩いたり走ったりするためでしょうか」、「それもありますが、足は逃げるためにあるのだと思います」と言って、人種差別でいじめられた生活を振り返っていました。逃げるしかないつらい状況を何度も経験して来られたのだと思います。

 自動車についていて道順を教えてくれるカーナビは、運転手が間違うと、元の道順に戻そうとします。でもカーナビには直進と右折と左折しかなくて、「ターン」も「バック」もありませんので、大回りに回って、何とか元のところに戻そうとします。「前進あるのみ」は融通が利きません。
 私たちは二足歩行で後退も簡単にできるようになったのだと思います。後退のできる動物は意外とたくさんいるようですが、突然猛獣などに遭遇したときに、相手の様子をうかがいながらそっとバックする。ある程度距離が空いたところで、ターンして懸命に逃げる。二本足で走るのでスピードが遅くなった分、後退が上手になったのかも知れません。
 私たちは小さな頃から、少しくらい困難な状況であれば、そこから逃げてはいけないと知らない内に教えられてきたように思いおます。「前進あるのみ」、「後退してはいけない。」少し嫌な状況でも逃げずに頑張って立ち向かう。でも、人によって感じ方は色々です。怖い動物に遭遇してもひるまない人もいるでしょうし、子犬でも嫌だという人もいます。
 イエスさまは、「みんな、どんな時にも逃げるな」とは言われませんでした。逆に、みんなのあるがままをまず尊重してくださいました。「逃げるが勝ち」は、「逃げれば、その結果勝つことができる」ということのようですが、「逃げるが負け」でもいいじゃないか。十字架上のイエスさまの姿は「逃げるが負け」だったのではないかと思います。
 将棋などで負けた時、「参りました」ではなく、「負けました」と言うようです。負けをはっきり認めるのはつらいことですが、「負けました」で終わる。イエスさまは十字架にかかられて、もう相手に手向かいしない、手向かいできない、徹底的に負けている姿がそこにありました。
 負けて逃げるのは卑怯なのでしょうか。十字架は、負けることがよくある私たちへの同情と共感と慰めの姿だったのだと思います。そして、いろんなことによく負ける私たちに、「負けを認めて、でも、それでも何とかやっていける」という、新しい生き方がそこに示されているのではないでしょうか。