そのまま「であろう」と訳されていました。ただ聖書ギリシャ語の教科書には、「ギリシャ語の未来形は単なる推定ではなく、確実な断定的な意味で用いられる」と書かれています。それで新共同訳では、「慰められる」と訳が変わって、断定の形になっています。慰められるかも知れないという不確かなことではなく、必ず慰められるという意味です。
ルカ2:11、12では天使が羊飼いたちに救い主のお生まれを告げています。「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。(中略)あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」新共同訳なのですが、ここでは、「見つける」の未来形を「見つけるであろう」と訳しています。これが最新の日本聖書協会共同訳では、「見つける」と言い切っています。必ずそうなるという言い方です。
羊飼いたちの生活は、次の日に何があるか分からない。羊が盗まれたり、いなくなったり、他の動物に襲われたり。それを防ぐために夜通し交代で番をし、朝になったらまた移動を始めなければなりません。明日は今日よりも少しはましになってほしいと願っても、今日以下になるかも知れない。そんなことを思いながら精いっぱい生きている。そんな人たちに救いが告げられます。
羊飼いたちは暗い中をベツレヘムまで行って、「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた」。暗くて誰もが寝ている夜中によく探し出したなと思いますが、天使の言った「見つける」がその通りになったのだと、私たちは知らされます。
「慰められる」や「見つける」は、断定だけでなく、神さまのお約束の意味なのではないかと思います。「必ず慰められる。必ず見つける。私がそのようにさせる」と神さまが約束してくださっていて、その約束を、イエスさまがさらに確かなものとしてくださっておりました。
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