和歌山の神愛修女会のお御堂は、昨年の豪雨で基礎部分の土砂が一部流出してしまいましたが、後に復旧されて再び安全に礼拝することができるようになりました。以前、この聖堂での礼拝に出させていただいたとき、それまでと違った席を指示されたことがあります。その初めての席からは、聖堂正面の天井に吊ってある十字架の背後に、ガラス窓越しに旧愛の園のテレビのアンテナが見えていました。窓の外はいわゆる世俗の世界で、「この世」を背景に十字架が下がっているような感じがしたのと、十字架越しにこの世を見るような感じがしたのと、十字架の意味を改めて考えさせられました。
日本聖公会の総会は、この二十年ほどは管区事務所のある東京の聖バルナバ教会で開かれていますが、この教会の礼拝堂の十字架は正面の壁の少し左に寄った所にあって、正面の真中には目の形をした大きな窓があり、ステンドグラスにイエス様が描かれています。何年か前の総会の時、二日目の午後に天気が荒れて雷も鳴り出し、時折その目が光りました。目が耀くと言うより、目から閃光が走っているようでした。それを見ながら、「あの目から外の世界が見えるのか、あの目で礼拝堂の中の私たちが見られているのか。あの目は右目やろか左目やろか」と考えておりました。
礼拝堂の正面からは、たくさんのことが語りかけられ、問いかけられているようです。テレビのアンテナを背景にした十字架。イエス様の十字架は、この世の真っただ中に、この世のすべてを背負って立っておりました。
今日は十字架の方角から何が見え、何が問いかけられるでしょうか。「この世」から見て、イエス様の十字架が神様との通信のアンテナに見えているでしょうか。
(教区主教)
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