ある日の昼食。何も考えずにぼーっと食べてたら、「今、何のサンドイッチ食べたか覚えてる?」「ツナときうりやったと思うけど」「焼き豚やったやろ」「そー言えば焼き豚やったか。けど、ツナの缶がテーブルにあったし、ツナ食べた気になってるんやなぁ」「ほんなら、いろんな絵置いとこか。お酒の絵とか。」
人間の感覚は当てにならないいい加減なもののようです。おいしいと感じるかどうかから始まって、きれいと感じるかどうかなど、人によってずいぶん違いますし、暑い寒いの感覚は人によってかなり違います。ひがみかも知れませんが、高尚な芸術について言えば、いいと言う人もいれば、私のようにほとんど分からない者もいます。大きな声では言えませんが、「なんでこんなもんがええんやろ」と思うことがよくあります。
感覚だけだったらまだしも、考え方は人によって全然違います。それでいろいろあって面白いはずですが、違っていることをお互いに分かり合えないこともしばしばです。私たちは、自分の感覚や考え方こそが正しいと考えたり、ひょっとすると自分の感覚がおかしいのではないかと自信を失ったりします。イエス様にいくら呼びかけられても変われない自分がいます。
「ピーピピピピ、ピカソもダビンチもー、いーいかどうかは自分で決める」って歌がありました。人がいいと言っているから自分もいいというのではなくて、人からおかしいと言われても自分の感覚でいいものはいいと言ったらいいという歌です。ちょっと恥ずかしくても感じることを素直に言えればすてきですし、人からそれを認めてもらったら気持ちいいものです。
「それはそうと聖餐式のウェファー、味がないけど」って、お恵みの味、しませんか?
(教区主教)
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