外にいるらくだ       主教 ステパノ 高地 敬

  

 うちの裏口から私が外に出ていることを知らずに、相方が内側から鍵をかけたことがこれまでに何度かありました。私も相方を締め出したことが何度かあります。このようなことは誰でも経験があるようで、マンションのベランダという中から見えやすい場所でも、案外よくあることだそうです。
 締め出されたことに気付いてすぐに頭をよぎるのは、「これはわざとではないだろうか」ということです。うっとうしい存在を消してしまいたいという日頃からの思いがつい行動に表れる。口では言わないけれども、本当はそう思っているのではないかという疑いの気持ちがむくむくとわいてしまうのです。「外に出ていることを知らなかったとしても、相方にとって私はどうせどこにいるか関心がないくらいの存在なのではないか。」そんなことは決してないはずなのですが、その後もしばらく恨みがましく考えています。
 自分にとって何の役にも立たない存在、うっとうしいだけの存在を消してしまいたい。そんなことを思って、イエス様の時代の人々は、イエス様をこの世からわざと締め出しました。わざと締め出されたことははっきりしているのに、イエス様はそのことについて何の文句も言われませんでした。弟子たちもイエス様を裏切りましたので、知らずに締め出したことになるかも知れませんが、イエス様はそんな人々にやさしく付き合っていかれました。
 中には、夫婦で一緒に家に帰ってきたのにお連れ合いより先に家に入って鍵をかけた人もいて、上には上があるようです。ただ、締め出してしまったことに気付いた時に「ごめんな」と素直に謝り、締め出された時にも相手を疑わずにやさしく「ええよ」と赦す。いつになったらできるようになるでしょうか。

(教区主教)