先日相方とスーパーのレジで並んでいたら、前にいた高齢の女性が支払いに手間取っておられました。かなり時間をかけて財布の中を探しています。小銭をぴったり出そうとしているのかなと思いましたが、その女性は百円札を出して払っていたと後で相方が言っていました。レジの人は若かったけれど、不審そうな顔もせず驚きもせずそれを受け取ったのだそうです。「若いのに百円札知ったはったんやな」。「百円札て、今やったら貴重やろ。よっぽどお金がなかって使(つこ)たんかなあ」。「ときどき出てくることあるやろ?本の中に挟んであったり」。「えっ、そんなことして取っといたんか」。
「失くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うとうれしいニュースですが、どうしても百円札しかないというのは、残念なことだと思います。希少価値があり、しかも思い出の百円札だったとすればとても貴重なんだけれど、使うと百円の価値しかない。おばあさんは小さな宝物を失った気分だったかも知れません。
他の人には価値は分からないだろうけれども、自分にとっては本当に大事なもの。ありふれたものだけれども大切な人にもらったハンカチとか、なんでもない思い出とか。
神様にとってもそういうものはたくさんあるでしょう。人間の目から見たらそんなに価値のないもの、でも、神様にとっては大事なもので、財布の中にしまってある百円札のようなもの。それが私たち一人一人ではなかったでしょうか。ただ、百円札である私たちは神様の財布の中にいることを忘れていることがほとんどですし、レジで出されれば百円の価値もないと思い込んでいます。でも、神様にとってはレジでは決して出したくない、価値なんか量れない大切な百円札でありました。
(教区主教)
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