どこかにいるらくだ           主教 ステパノ 高地 敬

 

 地下鉄漫才では春日三球・照代が「一番初めの地下鉄は、電車をどうやって入れたか。初めに穴を掘って電車を入れて、土をかぶせて、あとから地下鉄の工事にかかって、『確かこの辺に埋めたよなー』って」と言っていましたが、このあいだ地下鉄に乗っていて、「掘った土をどこに持って行ったんだろう」と、電車の中で寝られなくなりました。
 前にこのコラムで、「自動車のタイヤの減った分はどこに行ったのか」と書いたと思いますが、皆さん遠慮深くて、どなたからもお答えはありませんでした。「どこに埋めたかなぁ、どこに行ったかなぁ」と、「どこに、どこに」と気になることが皆さんにもないでしょうか。
 イエス様も聞かれます。「他の9人はどこにいるのか」答えは書いてありません。神様はアダムに「どこにいるのか」と聞かれます。アダムの答えには、後ろめたさと神様を非難する響きがあるようです。「どこ?」と聞かれると、答えが分からないか、やましいことがあって返事ができないか、分かり切っているから答えがないか、相手が嫌いだから答えないということが多いようです。答えがないから余計に気になる。何より気になるのが、自分が今からどこへ行くのかということです。
 弟子たちもイエス様に聞きます。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません(どこまでもついて行きますが。)」イエス様の答えは、「わたしは道であり、真理であり、命である。」漠然とした言い方のようなのですが、意外にはっきりした答えです。「わたしは父の家に行くが、わたしは道なのだからどこかへ行ってしまっていなくなることもない。あなたの足元から道はもう始まっている。この道を通って行けば、どこへ行くかすぐに分かる。」

(教区主教)