見てられないらくだ           主教 ステパノ 高地 敬

 

 先日、ある教会の主日礼拝で説教を始めようとした時、会衆の方々以外の視線を感じました。説教壇の上を改めて見ると、きれいな黄緑色のカマキリが、私をうさんくさそうに見ているのでした。そのまま始めようかとも考えましたが、私は足のない生き物と、足がたくさんある生き物は苦手ですので、お話している間にいきなり飛びかかられたら大変です。それでその教会の牧師さんにお願いして、強制排除していただきました。
 その二日ほど後、自転車に乗ろうとしたら、サドルの近くに黄緑色のカマキリがとまっていて、やはり私をにらみつけておりました。人の注目を浴びるならまだしも、にらみつけられるのは気持ちのいいことではありません。「そんな見るなよ」と言いたくもなります。
 反対に、人に見ていてほしいとか、見ていてもらわないといけない時もあります。子供がお母さんなどに「見てて」とせがんでいる姿をよく見ます。見てくれているときは、自分が新しくできるようになったことなどを嬉々としてやって見せますが、お母さんがおしゃべりなどしていて、なかなかこちらを振り向いてくれない時は、半ば泣きながら「見てて」と繰り返しています。私たちは、見てほしい時には見てもらえず、見てほしくない時に見られている、そんなことが案外多いのかもしれません。
  イエス様にも「私を見てください」と多くの人がお願しました。熱心に願う気持ちはイエス様に伝わり、イエス様は一人一人を本当に大切な人として見つめられました。だれかとゆっくり話しているひまもないくらいでした。見ていてほしい時にじっと見つめてくださり、喜んで見ていてくださる神様。その神様をじと見上げても、「そんなに見ないで」とは言われないでしょう。

(教区主教)