まぬけならくだ           主教 ステパノ 高地 敬

 

 京都の鴨川と高瀬川の間の河川敷には、昔から夕方になると若い(?)カップルがたくさん座ります。四条の橋の上から見ると、まるで計ったように等間隔になっていて、見事としか言いようがありません。隣との距離を適度に取って、プライバシーを尊重し合っているようです。
 8月の教区保育者研修会で講師の方から、素話についての本をいただきました。その中に「間(ま)」についての箇所がありました。「話を聞いている側にとって間は、話を受け止めて次の展開に備えるために必要だし、話し手は、間を取ることによって聞き手から次を促してもらうことにもなる。話し手と聞き手の息を共調させて、話を共有する助けにもなる。場面が変わる時やクライマックスを盛り上げる時には、言葉よりも沈黙の方が効果が大きい」とのことでした。言葉や気持ちのやり取りのためには、間がとても大きな役割を果たすことがよく分かりました。
 私たちも間をお互いのために使うことができればと思いますが、実際にはとても難しいことです。途切れることなく話して相手を圧倒してしまったり、逆に、間延びした語りでいらいらさせたりしてしまいます。
 イエス様はどうだったでしょうか。いやしを求める人をイエス様が黙ってじっと見つめられることが何度もあったと思います。イエス様に見つめられた人は、イエス様がほんの少し沈黙された後でかけてくださる言葉を、本当に大切なものとして受け取ったのではないでしょうか。イエス様特有の間を想像しながら聖書を読んで、一層のお恵みを受け取ることができればと思います。
 鴨川の河川敷のカップル同士の間隔は、お互いの状況を尊重し合う間のようなものなのでしょう。えっ、間違いないって?

(教区主教)