ある土曜日、ウイリアムス神学館の朝の礼拝の10分前の鐘が鳴ってないなと思いましたが、聞いてなかっただけかなとぼんやり考えながら礼拝堂に行くと鍵がかかっていました。改めて見ると、神学館のいつもは開いている外の扉が閉まっています。何で礼拝がないんだろう。何かの代休だったかな。全員でどこかに出かけているはずもないし。
家に帰って言うと、「何も聞いてへんの?」「聞いてない。」「忘れてるんやろ」と決め付けられて終わりでした。しばらくして祝日でお休みなんだとようやく気がつきました。土曜日だとうちの子供も学校に行かないので、祝日に全く気が付きませんでした。その上に、普段から世間の休みとは関係なく動いているので、余計に分かりにくいのです。
「私たちの国籍は天にある」から、ちょっとこの世離れしているのでしょうか。私たちはもう救われていて天国に既にいるようで、でも、救われる途上なので天の国を仰ぎ見る。どちらかはっきりした方が分かりやすいのですが、教会ではそうでないことが多いようです。
イエス様もはっきり言われる時と、なんだかあいまいな言い方の時と両方ありました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」って、税金、払うんでしょうか、払わないんでしょうか。
教会もこの世にありつつ、天の国を指し示すものだから、自覚を持って神様の業に仕えましょうということなのですが、この世に根を張りすぎると天の国を忘れてしまいますし、の世から離れ過ぎると根のない草のようになってしまいます。「どっちつかず」ではなくて、「どっちも大事」を大事にするには、どうすればいいでしょうか。
(教区主教)
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