アメを食べるらくだ               主教 ステパノ 高地 敬


 以前、大阪の地下鉄で、体格のいいお母さんが2歳くらいの女の子と小学3年生くらいの男の子を連れて前に座っていました。男の子はゲームに夢中です。しばらくして、「あっ、落ちた」と言ってお母さんが飴玉を床から拾い上げました。女の子が落としたのでしょう。紙を出して包むかなと思っていたら、お母さんはその飴玉を、ゲーム機でカチャカチャやっているお兄ちゃんに「はいっ」と渡すと、お兄ちゃんはすぐに口に放り込んでゲームを続けました。心なしかお母さんがニンマリしたように感じました。
 さてここでいろんなことを思いました。
 @知らぬが仏で、このお兄ちゃんは、床に落ちた飴だと知らなかったからお気楽でいられた。でも、お兄ちゃんが事実を知ったら、かなりショックだろう。
 Aとんでもない母親だ。人から見られているのに、よく平気で汚い飴を子供に食べさせる。自分がどんなふうに見られているか考えないのか。
 Bお母さんがちょっとニンマリしたように、自分の思い通りになった時はうれしい。飴は無駄にならなかったし、お兄ちゃんも飴に一応満足していて、すべて丸く納まっている。
 このどれもが日ごろ自分に起こっていることなのかなと思います。特に、結果がよければそれで良しと思ってしまっていることがよくあります。逆に神様は、結果はともかく、その過程で誠実にやっているかどうかを問われます。イエス様が神様と人々に誠実に生きられた結果は、十字架という人間の価値観からするととても良くないものでありました。
 私ならどうするだろうか。落ちた飴を紙に包んで捨てるのが正解とは限らないなと、ふと考えました。

(教区主教)