らくだは茶色                 主教 ステパノ 高地 敬


 昔からウイリアムス神学館の神学生が自転車に乗って御所の中を通ると、警官に職務質問を受けることがよくあるようです。仕事の格好でもなく、さっぱりした私服でもないといういい加減さが、何となくうさん臭いということでしょうか。
 昔、森譲主教は退職後に御所の中を自転車で神学館の講義に通っておられました。御所の一般公開の日に、「人がいっぱいで通れなかったけれど、私の赤いシャツを見て外国人観光客がさっと道を空けてくれた」と、とても感激しておられたそうです。
 前にローカル線の駅で電車から降りてきた南米系の女性が私を指差して、「ビスポ、ビスポ(主教または司祭のことだと思うのですが)」と叫ばれて、とても戸惑ったことがありました。つい先日もある駅で、かなり高齢の外国人の男性から声をかけられました。ローマ・カトリックの神父さんでした。
 聖職のシャツを着て歩いていても、日本人だと何にも気がつかないようなのですが、外国の人から見ると、明らかに聖職なのでしょう。いわば聖職の制服を着ている。制服には、「同一性、象徴性、禁欲性」を示す働きがあると言われます。制服は聖職の一員でありキリスト教であることを示し、着ている限りは勝手なことができません。それで、私用では制服を着ないという考え方と、聖職であることをいつも自覚して制服を着るべきと言う考え方が出てきますし、逆に、いつも制服を着ていると、「聖職づら」しているようで嫌だという気持ちになることもあります。
  信徒の方々も、クリスチャンであることを自覚している時とそうでないときがあるでしょう。神様は、私たちの制服を着ている姿と普段着の姿と、どちらを見てくださっているでしょうか。

(教区主教)