日本のらくだ                 主教 ステパノ 高地 敬

  あまり大きな声では言えないのですが、これまでスピード違反で捕まったことが何回かあります。その度に後悔します。でもこれは、スピードを出したことについての後悔ではなくて、捕まったことについての後悔で、これでは反省になっていないと良く分かっているのですが。
 うちの相方は、エジプトが映っているテレビ番組を見ながら私のことを、「エジプトに住んでた方がしっくりくるね。今度から都合悪なったら『ニホンゴワカリマセーン』て言うたら?」と言います。(エジプトに住むのは人間としてなのだと思います。)エジプトの人から見たら、私は絶対に東洋人だと思うのですが、でも、言われてみれば「何千年か前のモーセの時に逃げ遅れてしまった奴隷の子孫」かも知れないなと思います。未だに逃げ遅れ続けている。肝心な時に逃げ遅れ、捕まって強制労働させられている。
 私は幼児洗礼だったのですが、30年近くたってからイエス様に改めて捉まって、その後何回も後悔しました。イエス様のつらい「道」を歩かないといけない。そのために捉まってしまったことの後悔が8割と、イエス様に従って適切な速度でその道を歩けないことの後悔が2割です。ですからこれもスピード違反と同じで反省になっていないのかも知れません。
 考えてみれば私たちは元々そんなに楽な道を歩いているわけではなくて、その上にイエス様につかまって、別の意味でしんどい道が前に伸びていることに気がつきます。でも、神様は私たちにイナゴとかを送ってくださらないので、逃げることができません。と言うより、「この道でいいんだよ。私があなた方を捕まえていて、一緒に歩いているから」と言ってくださっているようです。

(教区主教)