ある教会の月報に、「主の祈りをしていて言葉をふっと忘れることがある」と書いてありました。たくさんお祈りしているのに忘れてしまう。以前、愛の園の朝礼で主の祈りのスピードがとても遅くて、次の言葉が出てこなくて慌てたことがありました。
何かの集まりで司式担当の方と会衆が、「主よ、憐れみをお与えください」、「キリストよ、憐れみをお与えください」、「主よ、憐れみをお与えください」の唱和をして、そこで主の祈りに入ればよかったのですが、何人かがまた「キリストよ、―」と言ったので、司式者が「主よ、―」とまた言われて、いつ終わるのかと心配になったことがあります。先日は司式の方が先に「キリストよ、憐れみ給え」と言われたので、どなたかが「キリストよ、憐れみをお与えください」とフォローして、事なきを得ました。
高校の時、『徒然草』の「高名の木登り」という話を読みました。木登りの名人が人を木に登らせて、高い危険なところにいる間は何も言わず、安全なところまで降りてきた時に「注意して降りろ」と声をかけた。安全な時ほど油断して失敗するものだという話です。主の祈りも同じでしょうか。暗記はしているけれども、うっかりすると何かの拍子に忘れる。簡単なことほど難しい。
イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい」と言われます。自分を愛するのは簡単だから、それと同じように人を愛しなさいということのようですが、実は逆かも知れません。自分を愛するのは簡単なようで一番難しい。自分を少しは愛せるのと同じように、人を少しは愛しなさいということではないでしょうか。では、私たちが自分をもっと好きになるには。その答を私たちは知っておりました。
(教区主教)
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