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昔はこぶがなかった 主教 ステパノ 高地 敬
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先日の信徒の集いの時に隣に座った方は、今年堅信式を受けた方で、お顔を忘れておりました。ごめんなさい。その方のお話をうかがっていたら、なんと私と同じ中学の同じ学年でした。ただ、おっちょこちょいの私のことを覚えておられないようで、それで少しほっとしましたが、その次の日には、別の方のお母さんが私の小学校の先生だったと知りました。時期が少しずれていたようで、またほっとしました。
続く時には続くもので、次の週に行った教会では、私が小学生の時に同じ学校の先生だった方がおられてびっくりしました。ただ、担任ではなかったので、当時の私は直接には知られていませんでした。
そう言えば、以前出会った他の教区の信徒の方は、私の幼稚園の時の同級生でした。やっぱり私のことは覚えておられなくて幸いでした。その方は幼稚園が大好きだったそうで、逆に幼稚園でよく泣いていて、お絵かきの時間には丸い紙皿いっぱいに満月の絵を描いていたような私のことを覚えているに違いないと思えて、なんだかぞっとしました。
昔の自分はなんとなく恥ずかしくて、だから、昔のことを知っている人がいると、あまりうれしくありません。過去の自分が覚えられているのが怖い。自分ではずいぶん変わったつもりでも、今の自分から「過去」を切り離したり、昔は昔と割り切ることはとても難しいようです。
昔の自分のあり方が許せないし、どうしても気になってしまう。過去の自分に縛られているのだと思います。私たちはイエス様の復活の命をいただいて新しく生きられるはずなのになぜでしょうか。復活を本当に自分のものにした時に初めて、今を生きることができるようになるのでしょうか。えっ、こんなのは私だけ?
(教区主教)
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