輝くらくだ                      主教 ステパノ 高地 敬

   先日Y司祭と並んで立っていたら、例の退職された某司祭が、「二人並んで向こう向いてたら、後光がさしてるな」と、またいつもの調子です。うちに帰ってそのことを言うと、「『後ろからありがたく拝んでますか』て言えばよかったのに」と、匿名希望の人もなかなかのものでした。
 二十年ほど前に奈良の長谷寺で会議があって、早朝の開帳法要に居合わせたことがあります。外はまだ夜明け前の真っ暗な中で、お経の合唱と鉦などの合奏が最高潮に達した時、どん帳がゆっくり上って、無数のろうそくの光に照らされた大観音像が現れました。もちろん観音さまを拝むことはしませんでしたが、何とも神々しく感動的なシーンでした。
 私たちは輝くものを見ると、感動したり恐れたりして思わず拝む習性があるようです。弟子たちもイエスさまが光り輝くのを見て心を動かされ、ひれ伏しました。この時には天から声まで聞こえてきたのですから、なおさらそんな気持ちになったのでしょう。これとは全く違うことですが、ステージの上で輝くスターに思い切り歓声を上げたり、聴衆の拍手に酔いしれながら演説する政治家の一語一語に興奮することもあります。そんなときにはとても気持ちがいいし、輝いている人と一緒にいられるのを誇りにも思います。心の中で知らずに拝んでいることもあるようです。
 山の上で輝くイエスさまに恐れひれ伏した弟子たちは、同じ方が十字架に架けられた時には逃げていきました。光を失った暗い影のような姿を見たくなかったのでしょう。私たちもいつの間にか同じようにしているかも知れません。神さまのお恵みが隠されているはずの肝心のものに目を向けず、目立つものばかり見ている。そして、よく見たら、、、、。だれかの後頭部を拝んでいませんか。


(教区主教)