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らくだのたてがみ 主教 ステパノ 高地 敬
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この間、パソコンに「かみのすくい」と入れて「変換」を押したら、「髪の救い」と出ました。パソコンに、「お前が忘れようとしていることを思い出させてやるよ」とばかにして言われているようで、がっかりしました。「神の救い」は私たちの希望ですが、私の「髪の救い」には希望がほとんどないからです。
日ごろ思い出したくないことを思い出さされることの不愉快な思いは置いておいて、この「神の救い」とは、神様が救ってくださる救いのことで、「髪の救い」とは髪を救って減少をくいとめて増加に転じることでしょう。少しややこしいことで申し訳ありませんが、この「髪の」や「神の」の「の」は、「が」の意味だったり「を」の意味だったりしています。
新約聖書が書かれているギリシャ語でも二通りあると、確か神学校で習いました。「神の愛」の「の」などがそれに当り、「神さまが私たちを愛してくださる愛」と、「私たちが神さまを愛する愛」の両方の意味があることになります。
ですから、「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)と書いてあれば、「神さまが愛してくださるから希望がある」と読むことができますし、「神さまを愛することが簡単にはできない力のない私たちにも、聖霊によって神さまを愛する道が開かれているから希望がある」と読むこともできることになります。そんなふうに考えると、少しうれしくなってきます。
「かみ」が急激に減り出したのは神学校の時でした。神さまの救いについて勉強すればするほど自分に力がないことに気づき、「髪を救う」ことができなかったようです。
(教区主教)
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